【曲肱】「あるがまま」(2008/06)
わたしの寺の境内の隅に『任運』と大書された前住職の顕彰碑が建てられています。三十数年前に新築した本堂庫裡、諸堂の落慶を記念したものです。この任運という言葉は、任運無作、任運騰騰など、あるがまま、自由自在という意味で使われる言葉です。
父である先住は尾張の農家に生まれ、七歳から禅寺の徒弟生活に入りました。『母から軍艦を見に行こうと言われ、ついて行った所が丹後の大きなお寺でした。後ろの山に登るとよく見えるから行って来なさいと教えられて登って行くと眼下に大きな軍艦、広い海が見え、生まれて初めての光景に大喜びで戻ってきましたが、母はすでに帰ってしまい、もういませんでした......』と、この日から何もわからないまま、いきなり寺での生活が始まったことを述懐しています。
二十歳までの十数年間をここで過ごしたのですが、厳しい師のもとでの体験が父の人生の基本になったことは言うまでもありません。その後、専門道場に入りそのまま雲水生活に入っていったのです。考えてみれば、青春時代のほとんどを修行にかけたことになるわけなのです。でも、私が子供のころ、父と一緒に草取りや掃除をする時などには、徒弟時代の失敗談をはじめ、専門道場での修行の様子などを冗談も交じえて、本当に活き活きと話していたものでした。 任運という語が、あるがまま、自由自在というのであれば、父の辿った道というのはどうだったのかと思ってしまいます。浜松医科大学の大原健士郎先生は、「森田療法で言う『あるがまま』は、自然体ということではない、生の欲望に沿って、気分や症状はいじらずに、あるがままに受け入れ、目前のやるべきことを目的本位・行動本位にやるということである......」と専門分野からおっしゃっています。生の欲望とは、死にたくないとか、よりよく生きたい、幸せになりたいとかいった欲望のことと言われます。つまり、ふだんから何もしないでいる人の自然体というのがあるがままということではなく、違った生活や環境、自分に与えられた物事に積極的に取り組んで自己実現をはかるように生きることともおっしゃっているように思うのです。 今もこれからの時代も、高齢者に限らずとも、あらゆる変化や動きに対応できるしなやかな生き方ということが最も大切なことと言われます。このしなやかさというのは、あらゆる物事をあるがままに受け入れ、自分の意思ではなくても真っ向から取り組める事でもあると考えられました。 六月は父の日、そんな生き方をした父も二十五回忌を迎えました。
※文藝春秋 特別版『心と身体の処方箋』参
林 学道