【随縁】師父(しふ)を憶(おも)う(2010/06)
六月の第三日曜日は「父の日」です。
「父」と一緒に過ごすことのなかった私にとって、「父」に代わって、「師父」(父のように敬愛する師)の存在がありました。
幼少にあっては叔父(和尚)であり、小僧時代は授業師、大学にあっては教授、修行にあっては老師、住職してからは先輩の住職。
その折々に、師として、また父がわりとして私を育て導いていただきました。
「お父ちゃん」「お父さん」といった、甘えられる存在ではありませんでしたが、時に優しく、時に厳しく私を護り育んでいただきました。
昭和五十年、本山布教師として初めての巡教の折、岡山の国清寺様にお世話になりました。その日、薬石(夕食)の時のことでした。ご住職の華山恵光老師からこんなお話を伺いました。
「教師さん、このごろは、朝起きがだんだんと辛くなってきましてね。私が毎朝小僧を起こしているのですが、実は、私は小僧に起こされているのですよ。お預かりしたよそ様の子を起こしておいて、私が寝ているわけにはまいりません。この歳になると、辛い日もありましてね。」とお話になりました。まさしく、「寝ていて人を起こすべからず」です。
小僧にとって辛いことと言えば、何といっても、眠いこと、腹が減ることです。私も、辛い思いをしたことがあります。「もう少し寝かせてほしい」と何度思ったことか、師匠を恨めしく思ったことでした。
老師のお話を伺って、師匠のことを思いました。私たち小僧を起こすためには、師匠はそれよりも早く起きなければならなかったこと、辛い日もあられたことだろうにと。小僧は眠たい一心、そんなお師匠さんのご苦労など知る由もなく、恨めしく思ったのです。つくづくと師匠の有り難さを思い知らされ、恨めしく思ったことを恥じ入ったことでした。
「教えて厳ならざるは師の慢なり」といいます。師として厳しく導いていただいたおかげで、今日の私があるのだと、ただただ感謝の思いです。
さらに老師のお話です。「お互いに、子どもを交換して、小僧として育てるといいと思いますよ。親子では、子は親に甘え、親もまた子に甘えてしまいます。よそ様の子なれば、甘えは許されません。」と。もっともなお話ですが、現実には、なかなか実行できないことです。
四人の子の子育てを終えた今、親として子に甘えてはいなかったか、「厳父」としての父たる務めを果せたか、との思い一入です。
微笑義教