法話の窓

【随縁】弾琴の喩え(2010/12)

 十二月八日は、「成道会(じょうどうえ) 」。「仏教」誕生の日を寿ぎましょう。  「仏教」(仏陀の教え)に、『弾琴の喩(だんきんのたとえ)』があります。

  ある時、仏陀は、マガダ国の都ラージャガハ(王舍城)のほとりのギジャクータ(霊鷲山)におられました。そのころ、近くの淋 しい森で、ソーナ(守篭那)という一人の比丘が修行を続けていました。彼の修行ぶりは、大変激しいものでしたが、なかなか 悟りを得ることができなくて、悩み苦しみ、この道を捨てて世俗の生活に還ることも考えるようになりました。
  仏陀は、彼の心の迷いを知って、彼を訪れ、その心境をただしました。彼は、あるがままに、その思うところを打ち明けまし た。
  仏陀は、彼が、以前、琴を弾くことが上手であったことを思い、
  「ソーナよ、琴を弾くにはあまり絃を強く張ってはよい音は出ないであろう、また、絃の張りが弱すぎてもよい音は出ないであ ろう、ソーナよ、仏道の修行も、まさにそれと同じであり、刻苦に過ぎては、心たかぶって静かなることが出来ず。弛緩(しか  ん)に過ぎれば、また懈怠(けたい)におもむく。ソーナよ、なんじは、琴の音を調える時のようにその中をとらねばならない。」   (中道の教え)
  それより、ソーナは、この『弾琴の喩え』をじっと胸に抱いて、再び修行に励み、ついに悟りの境地に至ることができました。
                                                (参考・増谷文雄『仏教百話』筑摩書房)

 


 八月三日夜半、A子さんは旅立ちました。それは、周りの者にとって、あまりにも突然のことでした。
 A子さんは、一途に社会福祉の道に努力精進し、その結果、種々の資格を取得。また時を惜しんで、ボランティア活動にと、全力投球の人でした。
 そんな彼女にとって、どんなに一所懸命に頑張っても、どうにもならない、体調不順、職場における人間関係の悩みには、耐えられなかったのでしょう。
 少し休養して、職場を転じて、等々。他に道はあっただろうにと。彼女の悩みの深刻さに気づかなかった不明を恥じるばかりです。
 少し、琴の絃を張りすぎた、もう少し、緩ゆるくしてよかったのではないか。そんな調律師(仏陀=師)との出会いがなかったことが、悔まれて、残念でなりません。
 A子さん安らかに  合掌

微笑義教

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