006 食事五観
食事五観の偈(しょくじごかんのげ)
一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る。
二つには、己が徳行の全闕(ぜんけつ)を忖(はか)って供に応ず。
三つには、心を防ぎ、過貪等(とがとんとう)を離るるを宗とす。
四つには、正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
五つには、道業(どうぎょう)を成ぜんが為に、応にこの食(じき)を受くべし。
今年、鳥のインフルエンザが猛威をふるっています。感染した鳥が見つかった鶏舎では、全ての鳥を処分しています。何千、何万羽という鶏を焼いたり、生きたまま袋に詰めて土に埋めたりしている映像がテレビに映りますが、あの中の多くの鳥は未だ感染していない健康な鶏なのでしょう。人間を守るためとは言いながら、何とも胸が痛くなる光景です。
時期を同じくして、アメリカで狂牛病が発生して、なんと牛丼屋さんから牛丼のメニューが消えると大騒ぎをしています。今更ながら考えてみると、私達の食材は、多くを輸入に頼っているのです。この小さな島国に、世界中の美味、珍味を集めている日本人の胃袋は、一体どれほど大きいのでしょうか。
昔の農家では、年老いて卵を産めなくなった鶏の固い肉しか食べなかったそうです。そこに、鶏という生き物のいのちに対する、最低限の礼儀があるように思います。
私達は、豊かさとともに贅沢を身につけ、より柔らかい肉、より質のいい食品を求めるばかりに、実は私達がいただいているのは、いのちそのものであるという現実を忘れているのではないでしょうか。固いの柔らかいの美味いの不味いのと文句が出るのは、そのいのちを物としてみているからでありましょう。私達が毎日いただくお米も、精米される事無く種籾として植えられれば、来年もその次も、永遠に稲穂を付けるいのちなのです。そのいのちの流れを絶って、私達がご飯を食べているのです。
食料が危ないと騒がれる今、このことを忘れて食事に対して倣慢にふるまう私達にバチがあたっているのかも知れません。
私達は、他のいのちをいただかねば生きていけないということに対して、謙虚な気持ちを忘れてはならないのです。
私達が口にする全ての生き物への慈しみの心を持っているならば、自分がこの食事をいただくにふさわしい人間であるか、反省させられます。またこうして他のいのちをいただいて生かされている自分が、どのように生きていかねばならないか、何をなすべきか、新たな決意も生まれてくることでしょう。
食事五観の偈は、私達にこのことを戒めているのです。
東 博道