法話の窓

007 こころの笑顔

 老夫婦が二人で暮らしていた。ある日、知人よりぼた餅を五つ頂いた。二人はお茶を入れ、仲良く食べ始めた。ところが、二つずつ食べたところで二人の様子が変わってきた。残りの一つを奪い合い、喧嘩を始めたのだ。

 そこへ通りかかった人が仲裁に入り、喧嘩を止めようと、「『無言の行』をして勝った方が食べることにしたらどうだ。」と言い、二人は無言の行を始めた。夜になっても二人は一つのぼた餅を前に黙り込んでいる。すると、泥棒が入ってきて、二人の財を持ち去ろうとしている。婆さんは身振り手振りで爺さんに知らせようとするが爺さんは知らん顔。泥棒は風呂敷を抱え、もう外に出ようとしている。婆さんはとうとう「爺さん、泥棒。」と大声で叫んだ。爺さんはニタッと笑って、「わしの勝ちじゃ。」と残りの一つのぼた餅を食べている間に泥棒は多くの財を持ち去っていった。

 これは『百喩経(ひゃくゆきょう)』という経典にある「老夫婦とぼた餅」と言う話です。なんと愚かな話でしょう。しかし世間にはこんな愚かな話が一杯です。これがもしぼた餅でなく宝石やお金だったらどうでしょうか。案外、私達も老夫婦と同じ事をしているのではないでしょうか。

 禅はとらわれない心を育む宗教です。
「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」。
 無一物とは一物もないこと。これほど情けないことはないようですが、しかし、人間は胸に一物、背中に二物というような様々なものに執着し過ぎるがゆえ、本当の尽きることのない無尽蔵の有り難さをわからないでいます。

 手を大きく広げて、いっさいのとらわれを思い切り離してみましょう。すると、花を見て大地の恵み、月を見て天の恵みを知り、あり余る諸々のものを私たちは頂いて日々を送っているとわかるはずです。

 人間はこの大宇宙の大いなるいのち、仏のいのちの中に生かされているのです。無一物になれば無尽蔵の世界が広がってきます。ちっぽけな物にとらわれず、大いなるいのちを頂いていきましょう。人生愚話にならないように。

自我と言う小さきものを捨ててみよ

        三千世界わが身なりけり

 

辻 良哲

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