法話の窓

021 (続)難儀(難木)

 前回は、三毒(貪瞋痴)の煩悩に汚染されて、人はどのような人生を送るようになるのか、一本の苗木に譬えて話しました。

 三毒の煩悩に汚染された心は、自分でも気付かない中に人をいじめ、他人の言動にいちいち腹を立て喧嘩する。自身も他人も傷付けて、恨み怨(うら)まれ、妬(ねた)み妬まれ、疎(うと)み疎まれ、と言うこの一連の悪循環を日々繰り返して、人生を棒に振ってしまう。これを難儀と言う、という話をしました。

 ここに、お腹を空かせた兄弟が居る。そして、テーブルの上にパンが一つあった。兄か弟かのどちらかが、そのパンを独り占めして食った。相手は当然面白くない、瞋(いか)ってパンを取り返そうとする。パンを手にしている方は、愚かしくも、獲れる物なら獲ってみろと言って、逃げ回る。取っ組み合いの喧嘩。殴られた方は、相手を憎み、その思いやりの無さに疎ましさを感じたりする。

 そうした「貪(トン)」むさぼり、「瞋(シン)」いかり、「痴(チ)」おろかしさ、を繰り返し循環させた生活。
 つまり、物事を自己中心的にしか考えない性格・行動は、恨み・妬(ねた)み・嫉(そね)みの心の渦を益々増大させて行く事になって難儀な人生を送る事になる。
 これは、単に食べ物だけの話ではなく、現代的に言うとテレビゲームやパソコンの奪い合いかもしれない。

 では、この「難儀」な生き方を、どうしたら変えることが出来るのか。

 江戸時代(1685~1768)の禅僧に白隠(はくいん)と言う日本臨済禅中興の祖と称される人がいる。その人の著作に『坐禅和讃』という経典がある。その中で禅師はこう述べていている。

 「...、六趣輪廻(六道輪廻のこと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つ)の因縁は、己が愚痴の闇路なり、闇路にやみじを踏み添えて、...」
 -この今、生きている社会に於いて六道(特に地獄・餓鬼・畜生の三悪道をさ迷う。)を、ぐるぐるさ迷う原因と結果を作ったのは、自分自身が「貪、瞋、痴」の生活を無自覚に繰り返したからに他ならない。

 「...、布施や持戒の諸波羅蜜(以上に忍辱・精進・禅定・智慧を加えて六波羅蜜という。)、念仏懺悔修行等、某品多き諸善行...一座の功をなす人も、積みし無量の罪ほろぶ...」
 -(三毒の煩悩を浄化し真の幸福を得るためには)六波羅蜜を行じるか、(朝にタにお仏壇の前で)念仏をする。または、懺悔する。諸々の善い行いをすれば、自身がこれまでに作った罪は消滅する。-と言う意味が書かれている。

 以上の『坐禅和讃』の大意は、本来わたしたちは、皆ことごとく仏である。そして、今この時この場所が、蓮華国なのである。と説くものです。

 最後に、先述の諸善行(懺悔と利行)の実践について仏教経典は次のように述べている。

◎懺悔文(さんげもん)
 「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口(語)意之所生、一切我今皆懺悔」(がしゃくしょぞうしょあくごう、かいゆうむしとんじんち、じゅうしんく(ご)いしょしょう、いっさいがこんかいさんげ)と心静かに三回唱える。

 
◎『華厳経』「普賢菩薩願行讃」
 -我が昔造りし所の悪業は、皆無始の貪と瞋と痴とに由る。(わが)身と語(ロ)と意とより生じたる所なり。(その)一切(の悪業)を、我は今、皆懺悔す。-

 次に、悪業を消滅する方法としては、利行の実践を説いている。
 先ず、「利行」と言うことばの意味は、①人のために尽くすこと。②善行によって衆生を利益すること。③利他行。をいいます。

 利行について、『十地経』(じゅうじきょう)は様々に説いていますが以下は抜粋したものです。

 -かぎりなく広大な道心をもって敬礼し、尊重し、尊敬し、礼拝供養するのである。...飲食、臥具、坐具、薬という修行者に許された日々の必要物を布施する。...(正しいさとりをえた師(先生)の元において修行実践することによって)...あやまった食欲・瞋恚・無知は捨て去られるにいたる。-と利行→悪業の消滅について説かれています。

 もし、あなたが自分は難儀(難木)を育てていると思ったら、懺悔文を唱え静かに坐り、自分にも出来そうな利行を見つけ、実践したらどうでしょう。

 そうそう、あの窮鬼さんですが、あれは与太郎さんに憑依した貧乏神でした。

林 玄英

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