法話の窓

036 持ち物から持ち主へ

 私たちが幸せと思っている対象は、何でしょうか。ある人はお金であったり、名誉であったり、またある人は旦那様であったり奥様であったり子供であるといわれるかもしれませんね。

 これらは皆、持ち物であります。年齢と共に持ち替えてゆく持ち物であり、着替えてゆく衣装であって、肝心な持ち主そのものが忘れられている事に気付きませんか。

 持ち物は無常でありますから、いつかはうつろい消えてゆく事は道理であります。生が死に、愛が憎悪に、若さが老いに、素直な子供が反抗する子供に、山と積まれた財産が借金へと変わるのは無常である世の当然の姿と言えましょう。

 そういう、うたかたのようなはかない持ち物に変わらない幸せを求めて追っかけている事は、間違っていると思いませんか。

 ルソーも『エミール』の中で、「人間は誰でも、王者であろうと貴族であろうと大富豪であろうと、生まれる時には裸で貧しく生まれて来、そして死ぬ時にも裸で死んでゆかなければならない。このしばらくの中間を、さまざまの着物を着る。女王のような華やかな着物、乞食という衣装、僧服、金持ち、社長、美人、さらには主義とかうぬぼれとか劣等感とか...。すべて衣装。ほとんどの人が、この衣装にばかり目をうばわれて一生を終わる。すべてを脱ぎ捨てて裸の私自身をどうするかを全く忘れてしまっている」というようなことを言い残しています。お釈迦様はこのことには早々と気づき、持ち物のすべてを捨て、持ち主である私の生きざまを真剣に求めて出家されたのであります。永遠に変わらない真実の幸せを求めて出家・修行をされたのです。

 要するに持ち主の生きざまなのです。持ち主である私自身の生きる姿勢を変えてみる事により、人生に価値を見出す事にもなるのです。ではどう変わったらよいのでしょうか。一言で言うならば「外に求めない」ということ。地理的にいってどこかに、時間的にいって明日・来年・来世という別の時に求めず、常に今、ここに姿勢を正して生きる、ということなのです。

 私の住む愛知県犬山市の今年の桜(ソメイヨシノ)は近年になくきれいでした。3月中旬から寒さが続き、じっと寒さを耐えておりました。そして、いっきに暖かさを感じはじめますと、昨日まで三分咲きだった花が、翌日には満開となりました。短期間に咲き誇ったものですから花の色も濃く鮮やかでした。

 桜を見に師父と母を車に乗せて出かけました。五条川沿いの桜は見事でした。川沿いに多くの桜が植えてありますから町興しにも一役担っています。見物を終え私のお寺に帰ってきました。すると本堂の前にある桜はさらに見事に感じました。お寺の風致にあった春がそこにあったのです。

 よそに探しに行く事はなかった、と思いました。目を外に向けて、いつかどこかに探し回る姿勢である限り、ついに永遠に幸せを得る事はできないでしょう。

 どこであれそこに腰をすえる、それよりほかにはないのです。

 いつ、いかなる条件の中にあっても、そこに腰をすえ、それを両手にいただくという姿勢が大事だと思うのです。

澤田慈明

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