法話の窓

053 『難』と『縁』~怒りについて~

 とある研修会に出かけた時のことです。道路工事による交通規制に出くわしましたが、その待ち時間が異常に長いのです。交通量が多い一本道なのだから適宜時間を調整してくれればよいものを要領が悪い(としか思えない)せいか30分近くも待たされることになりました。我慢できなくなった反対車線の運転手が飛び出てきてガードマンにわめき散らします。私はこちら側でしたが、『大の大人があんなに大声を出して......もっと言ってくれ!』と内心思っておりました。

 そんなことがどういうわけか今年の初夢の中に出てきたのです。夢の中の世界は非常にリアルで、しかも過激なものでした。私は勿論のことみんなのイライラする気持ちが真っ赤な炎となって道路の側で燃え盛っているのです。

 観音経というお経の中に「念彼観音力 火坑変成池」という言葉が出てまいります。(観音を念ずれば、火の坑〈アナ〉は池と変わる)というものです。『念ずる』というのは実現することを心の中で常に思うというような意味でしょうか。『観音様!』と叫んでその御名を心に刻む時、火の坑も一瞬にして涼しげな池に変わって救われるというたとえ話です。しかしながら実際のところ廻りの状況が一瞬にして好転するというような劇的なことはあまり望めないはずです。つまり自分自身が業火に焼かれつつあるのだということをはっきり自覚できた時、廻りの状況が正しく見えるということでしょう。

 また更に自分の意思で気づくことができればそれにこしたことはないですが、何かの縁によって『気づかせていただく』ということもあるはずです。実際一生の中で本当に火災の被害を受けた経験のある人はそんなに多くはないと思いますが、家を失って初めて家族の絆に気づいた話やご近所の方の温もりに触れた喜びを糧に再生された話はよく耳にするところです。「難」によって「縁」に気づくことも観音を念ずるご利益だと真摯に受け止めたいものです。

 丁度厄年の頃です。家族で買い物に出かけた折、駐車場に車を停めていたところ、すぐとなりに壮年の夫婦が駐車しようとしてきました。ところが私の車の運転席を大きくひっかく形で右のドアにぶつけて来ました。ムッとしましたが、謝りに来るだろうと思っていたらチラっと横目で見ただけでそそくさと店の中に行こうとします。そこで『どういうつもりなのか』ということを言うと、「因縁をつける気なの!」ととなりにいた女がわめきます。更に少しばかり酒臭い男の方が「当ててねえだろう!」と声を張り上げます。おそらく顔つきが変わったであろう私が車外へ出て相手に詰め寄ると、助手席に乗っていた息子たちが突然大声で泣き出しました。その声でふっと我に返った私は自分がやろうとしていたことに自分で驚き、一呼吸した後、警察に連絡をとり、事情を説明した上で車についた傷の高さ、塗料の色などを調べてもらいました。するとさっきまでギャーギャー騒がしかった夫婦が一転してペコペコと頭を下げます。その態度を見るにつけこみ上げてくる何かがありますが、今度はグッと我慢です。子供たちの声がつまり観音様の声で、私は燃え盛る怒りの炎の中から引き戻してもらったわけです。

 あの時あの場所で、あの怒りに身を任せていたら...と思うとゾッとすることがあります。最近はすっかり市民権を得たようで、怒りを表す言葉として「キレル」という言い方がよく使われます。何がキレルのかについて解釈の仕方はいろいろあるかもしれませんが、怒りに任せて人と人とを結ぶ縁を全て断ち切ってしまうとすれば、キレタ後、最後の最後に残るものは結局「後悔」と「孤独感」のみです。一時の怒りで『わたし』を焼失しないようにしたいものだと...(自戒の念をも込めて)...つくづく思います。

峯浦啓秀

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