法話の窓

067 こころもバリアフリー

 世の中バリアフリーが叫ばれています。私のお寺の幼稚園も老朽化で改築することになり、新築の園舎も玄関にはスロープがあり、トイレも車椅子で入れるようになりました。街を歩いていても、段差をなくすスロープや点字ブロック・音のする歩行者用信号をよく見聞きします。

 しかし、通りがかりの人が車椅子を押してあげたり、目の不自由な人に手を貸してあげたりという姿はあまり見ることがありません。手を貸してあげたら周囲の人の視線が一斉に集まって恥ずかしいとか、親切めかすのが偽善的じゃないだろうかとか、いろんな気持ちで手を出せずにいてしまう。それは、私たちの中に「とらわれたこころ」があるからです。

 以前、幼稚園に車椅子の子が通ってきていました。古い建物で、玄関にも段差、廊下の途中にも段差と、バリアだらけでした。でも、その子の車椅子が見えると、同じクラスの子が我先にと走っていって、車椅子係をやってくれました。係の子は、得意そうな顔をして車椅子を押してあげるのです。そんなとらわれたこころを持たない子どもたちがいれば、おんぼろ園舎もバリアフリーだったんだと気づかされました。

 般若心経に「無色声香味触法」と出てきますが、五感で感じるものはそのときどきで違い、絶対的ではないというのです。確かに、後になって、あの時車椅子の人に手を貸してあげればよかったな、あの目の不自由な人は迷わずに横断歩道を渡っただろうかと後悔することも少なくなく、そのときのかっこ悪いとか、恥ずかしいとかいう感覚にとらわれていた自分に気づきます。

 本当のバリアフリーは、建物や道の段差をなくすことではなく、私たち自身がとらわれたこころを持たないことであり、そのこころのバリアフリーが社会全体をバリアフリーにする大きな力を持つことに気づきたいものです。

宮田宗格

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