098 自分探しの旅
女性の一人旅のキーワードに「自分探し」という言葉が聞かれます。世知辛い世間を離れ「自分とは何なのか」をみつめる機会を設けることは素晴らしいことです。
昨年の暮れにインドへ渡りました。お釈迦さまの国に一度は訪れてみたいという長年の願いを叶えることのできた歓びは、予定通り飛ばない飛行機会社への苛立ちをも半減させてくれるものでした。
今日、インドはIT王国とも呼ばれていますが、訪れた地はお釈迦さまの聖地で田園風景が広がる片田舎ばかりでした。十二月のインドは乾期を迎え、あたり一面は白っぽく、バスやトラックは砂埃を巻き上げながら、クラクション高らかに走り過ぎます。その中を老若男女の裸足の村人たちや荷車を引く牛や馬。餌をあさるノラ犬やノラ猫、野生の猿たちが、それぞれに自分たちの分を全うする姿に彼らの幸せが伝わってきたものです。
かつての妙心寺管長を務められた山田無文老師と共にインドを旅された平光善久氏の詩集『インド』の冒頭の一節には、インドの風光が露わに詠われています。
インドの牛
インドの牛は啼かない
ただ 黙って歩くだけである
インドの牛は
インドの餓えを知らない
ただ 黙って痩せるだけである
お釈迦さまがブッダガヤの地で、菩提樹下にてお悟りを得られたとき「山川草木悉有仏性」と感嘆の言葉をあげられました。「ヒマラヤもガンジスも坐禅草も菩提樹も、悉くが仏のあらわれであった」と仏法の真髄を遺されています。仏とは、愛おしい自分と他の存在が同根であったと頷ける、認許の心のことです。この言葉は、お釈迦さまご自身の自分探しの旅の答えであったことに違いありません。仏教徒の私たちは、山や川も草も木も仏であると手をあわせる以前に、お釈迦さまご自身の心に眼を向けていきたいと思います。平光氏がインドの牛に、平光氏ご自身の認許の心を垣間見られたことに通じます。
禅での帰依を敢えて信心と呼ぶ由縁がここにあります。我が心の仏を信じながら、他との距離と境界を越えて歩みたいものです。
足立宜了