法話の窓

099 「KY」な心

 妙心寺派では、開山無相大師650年遠諱の布教テーマとして「どう活かす わたしのいのち」を掲げています。私たちに与えられた尊い「いのち」を、今ここでどのように活かし切るかを現代に問いかける言葉です

 「いのち」は自分だけでなく、私たちのまわりにいる全ての人たちにも等しく与えられています。開山さまの教えに従って自己の「いのち」をしっかりと見つめ、その尊さに目覚めれば、あらゆる人々の「いのち」が同じように尊いことを知り、それをともに活かし切らなければならないと気づくことができるはずです。

 「空気が読めない」を略した「KY」は、昨年の流行語の一つでした。これはもともと、ものごとを成就させるための流れを適切に把握できないさまを表す言葉でしたが、昨今では、その場の雰囲気に少しでも馴染まない言動があった場合、その人をそこから排除するための言葉として用いられています。他人を一言で切り捨てるもので「排除社会」を象徴する言葉と言えるでしょう。

 町内のA君は、小学生の頃は友だちと仲良く遊び、家の手伝いも積極的に行い、幼い弟や妹の面倒も一生懸命見る少年でした。近所に住む祖父母の家でも快活に遊び、健やかに過ごしていました。

 そのA君の生活が一変したのは中学一年の春でした。ささいなことから友人とトラブルを起こし、それが原因でクラスの友人が一人、また一人とA君から離れていきました。そして仲間外れになったA君は、同級生や先輩から、ペンを折られる、暴行を受けるなどのいじめを受けるようになりました。いじめを避けて不登校になったA君の生活は一気に乱れ、悪い仲間との交遊も始まって、非行への坂道を瞬く間に転げ落ちて行きました。

 A君の転落は、友人とのトラブルによってクラス仲間から除け者にされることから始まりましたが、取るに足らないことで他者を集団から排除する傾向は、学校のみならず一般社会でも強まっています。現代の青少年はそれを敏感に感じ取り、集団から排除されることのないよう、自らを押し殺して大勢に従うことを強いられているとも言われています。

 A君は今、自宅から遠く離れた施設に収容され、社会生活に適応するための矯正教育を受けています。施設を出て自宅に帰るのがいつになるのかわかりませんが、故郷で待つお母さんは、その日が一日も早く来ることを願いながら待たれています。

 あらゆる「いのち」を活かすよう心掛けるところには、清らかで優しい心、「KY」な心が生まれます。他者を排除する「KY」ではなく、共に生きるための清らかで優しい心となる「KY」を皆が等しく保つ社会を築くことが、開山さまの御心に叶うものではないでしょうか。そして、私もいつの日かその心を以てA君を迎え、その心をA君の中にも育てられるよう努めたいと思っています。

朝山一玄

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