法話の窓

「蓮在泥中潔(はすはでいちゅうにあっていさぎよし)」

 この言葉は『維摩経』に「泥中の蓮」として出典をもち、蓮は泥の中でも美しい花を咲かせているという意味から、転じて、煩悩の中にあっても清らかに身をたもっている人のたとえとし、また、世の中の汚濁に染まらないで清く生きている人をたとえる言葉でもあります。このように泥田にすっくと立つ蓮の姿は何物にもまして清浄なものであるといえるでしょう。

 ところで、蓮は汚い泥の中にあるけれども、なぜ清浄なのでしょうか。汚泥の中にいて、それを養分とするから清浄になれる、蓮は泥の中にあるからこそ清らかな花を咲かせることができるとも考えることが出来ないでしょうか。

フーテンの寅さんが登場する『男はつらいよ』の主題歌(作詞 星野哲郎)に、次の一節があります。

 

  ドブに落ちても 根のある奴は

  いつかは蓮(はちす)の 花と咲く

  意地は張っても 心の中じゃ

  泣いているんだ 兄さんは

 

 この歌詞は仏教語の「泥中の蓮」の話を下敷きにして、フーテンの寅さんの心根がうたわれています。汚泥の中にあっても、そこにしっかりとした根を張る蓮ならば、その汚泥を養分として清らかな花を咲かせるように、フーテンのお兄ちゃんもまっとうな人になって、妹のさくらやおじちゃんたちを安心させてやりたいと願う、そんな寅さんのやさしい心が伝わってきます。

 あたかも根無し草のように通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日を送っているように見える寅さんも、実は清らかな花を咲かせるための確かな根っこを持っており、世の中の善きことも悪しきことも併せ呑んで、花を咲かせようとしているのです。

 その花がどんな花なのかはここでは大した問題ではありません。花が立派だとか美しいだとかといった結果ではなく、その花を咲かせようとする願いが大切なのではないでしょうか。泥中の蓮はその屹立した美しさが重要なのではなく、そこに厳然としてある姿こそが大切なのです。清濁を分別(ふんべつ)することのない蓮が汚泥とともに咲いているのです。そこに蓮の花の「潔さ」があるのです。

 私たちはともすれば綺麗なものや清らかなものに心が動いてしまいがちですが、それを支えている根本の存在を見落としてしまう時があります。清濁の対立にとらわれていては、本来の清浄な姿を見ることはできません。好き・嫌い、善い・悪い。そういう分別が私たちの生活のいたるところに顔をだします。

 この濁世を厭うことない、分別を超えた心こそを「清浄心」と呼び、それを誰もが本来そなえていることを泥中の蓮が教えてくれているのです。

久司宗浩

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