法話の窓

「小さな背中が教えてくれた大きな教え」

 「朝起きたら顔を洗って、トイレに行ってご飯を食べて、人に会ったらこんにちは。眠くなったらおやすみなさい。それで十分、皆救われるのじゃ」

 修行時代に師匠が修行僧の私たちに向かっていつもおしゃっていた言葉です。私などが口にするのもはばかれるほど厳しい修行を長年された師匠が、なぜ一般の人が当たり前にするようなことをおしゃっているのだろう、さらにはどうしてそれで人が救えるのだろうかと、恥ずかしながらずっと疑問に思っていました。

 私には今年九十二歳になる祖母がいます。若い頃から裁縫一筋、七十年を超えるベテランです。仕事に対する熱意もすごく、私の晋山式(住職の就任式)が決まったときは、自分から「引き物用に来られる和尚さんの作務衣を全部作る」と言い出し、三年で約五十着の作務衣を作ってくれました。そんな手先が器用、おかげで頭もしっかりしている祖母でしたが、五年ほど前から膝が痛いと言いはじめ、だんだんと歩くのが困難になってきました。そしてつい先日椅子から落ちていよいよ介護が必要になりました。小さい頃から仕事一筋、弱音を一切吐かない人が私の中の祖母の姿でした。いつかはこういう時が訪れる、そう頭の中では理解していたつもりですが、その事実を目の当たりにした時、また元気に歩く祖母に戻ってほしい、見ているのがつらいと、どうにもならないこの現実を受け容れられない自分がいました。

 そんな折、私が祖母を病院へ連れて行くことになりました。車椅子に祖母を乗せ「本当に小さな背中になってしまったな」と思いながら緩やかなスロープを上っているとき、祖母が「体がいうことを聞かなくて仕方ないねー」と笑いながら私に言ってきたのです。

 私はその言葉に衝撃を受けました。

 足が動かず一番つらいのは祖母自身です。私はどうにか良くならないのかと思っていたにもかかわらず、祖母は、その現実を笑いながらありのまま受け容れたわけです。

 「衆生本来仏なり」この言葉は『白隠禅師坐禅和讃』というお経の最初に出てきます。私たちはもともと仏さま、仏さまの心を持っていると書かれています。

 仏さまの心とは、あるがままをあるがままに受け容れる心であります。

 どうにもならないとき、私たちはどうにかならないかと外に答えを求め、そして迷ってしまいます。九十二年間厳しい時代を生き抜いてきたその小さな背中から発せられた言葉は、迷いの世界にいる私に、仏さまの心を示してくれました。

 同時にふと思ったことがあります。それは最初に述べた師匠の言葉です。厳しい修行を耐え抜かれた師匠は、修行僧である私たちにも仏さまの心が(そな)わっているということを、ずっと示してくださっていたのだと、今更ながらに気づかされました。

 もしかしたら、身近な家族や友人との何気ない会話での一言は、仏さまの言葉なのかもしれません。

 年の瀬にあたり、また来年が良い年になりますようにと願うとともに、他者の言葉から何かを学び取れる一年になればと願っています。

 祖母も来年は何を作ろうかと意気込んでいる今日この頃です。

永田明徳師

ページの先頭へ