法話の窓

「葛藤と共に生きる」

 お互いに新しい一年が平穏無事であることを心よりお祈りいたします。

 さて一般的には「仏の教えは数え切れないほどたくさんあるけれども誓って学ばんことを願う」と解される「(ほう)(もん)()(りょう)(せい)(がん)(がく)」ですが、年度テーマにも「学んで気づいて」とあるように、それは必ずしも外部の知識を学得することだけではないようです。

 (そう)(とう)宗の(どう)(げん)禅師の『(しょう)(ぼう)(げん)(ぞう)』「葛藤」に次のような一節があります。「いったい、もろもろの聖者たちは、たいてい、葛藤の根源を切断するという方向にのみ傾向して、どうも葛藤をもって葛藤をきるという行き方をするものはない。あるいは、葛藤をもって葛藤にまつわるということも知らないし、ましてや、葛藤をもって葛藤に嗣ぐなどとはとても知るまい」(増谷文雄訳)

 「葛藤」を『大辞林』で調べると「もつれあう葛や藤の意から ①人と人とが譲ることなく対立すること。争い。もつれ。②心の中に相反する欲求が同時に起こり、そのどちらを選ぶか迷うこと。コンフリクト。③禅宗で、解きがたい語句・公案、また問答工夫の意」とあります。

道元禅師は、ここでは「葛藤」を「文字・言句」の意味で使っているのですが、当初私は「迷い」だと誤解していました。すなわち「おおよその人は迷いを断ち切る為に参学するが、迷いを以て迷いを切ることや、迷いをまつわることを知らない。ましてや迷いを()ぐなどとは」というふうに。

 ただ誤解ではありますが、禅でいう迷いとは「()()(きゅう)(めい)(自分とは何か?)」や「(いち)(だい)()(いん)(ねん)(生まれてきた意味とは何か?)」に他なりません。振り返ってみれば、常にこうした問いが私の人生の原動力であったと感じています。特に目標もないまま大学を卒業し、何となく入った道場から逃げ帰った私に母が告げたのは、「そんなつもりで貴方を生んだ訳じゃない」という言葉でした。仕方なくこれも因縁と観念し、以来何事も「どうせやるなら自分らしく精一杯やろう」という気持ちで取り組んできました。

 とはいえ、何かしら壁にぶつかると私の心は揺れ動きます。迷いながらの人生はまだ続いていて、六十歳を過ぎた今でも「スカッと晴れやかに」とはいかないのです。

 ただ、せめてもの救いは、時折新しい発見があることです。それは誰かの思いであったり、自分自身の気持ちであったりと様々ですが、「あーそうだったのか!」。そんな気づきを得られた時はとても嬉しく思います。大袈裟ですが「生きていて良かった」と思うことさえあります。恐らくは、その時々に自分が抱えている問題と正面から向き合わないとそうした気づきは得られないのかも知れません。

当時は随分反発した母の言葉も、今となれば大きな愛を感じます。なかなか素直になれない親子関係でしたが、おかげさまで母が亡くなる二日前、病室に泊まり込んだ私は、「生んでくれてありがとう。貴方の息子で良かったよ」と感謝の言葉を伝えることができました。母が喜んでくれたのは言うまでもありません。

 これからも私は様々な葛藤を抱えて生きていくのでしょうが、しっかりと自分自身に向き合っていきたいと思います。それが私の「法門無量誓願学」なのです。

山本文匡師

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