法話の窓

「お値段以上?」

 昨年夏に紙幣が改刷され、現一万円札の顔となりました渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも呼ばれ、生涯でおよそ五百社もの企業設立・運営に関わるなど日本の近代化に大きく貢献した人物です。彼の座右の銘は、『論語』に出てくる「(われ)()()()三省(さんせい)す」だったそうです。意訳すると、「私は一日に何度となく自分を省みる。他者の為に行動し、誠実であったか。人の信頼を裏切るようなことはしていないだろうか。完全に学んだとは言えないことを、人に教えたりしていないだろうか」。

 渋沢栄一はこの信念に基づき、企業運営で得た利益は会社のものではなく社会全体のものと考え、教育・医療・国際交流などの社会貢献活動にも生涯尽力しました。まさしく、仏教の理想である【自利利他】を生きた人物でした。

 

 さて、(ひるがえ)って私自身はどうだろうかと、一万円札を眺めながら考えました。自分さえよければいいと思っていないか。他人を裏切るようなことをしていないか。僧侶として人前で仏法について話をさせていただく以上、いい加減なことを話していないだろうか。

 

 「どういった時に仏壇を拝めばいいのか。」という質問をされることがよくあります。そんな時、私はいつも「大切なのは先祖や亡き人を想う心を忘れずに過ごすことです。ですから、忙しい時は朝出かける前に手を合わせるだけでも構わないと思います。ただ、故人の命日ぐらいは、お供え物をして線香を立ててお経をあげて、日々の報告と感謝をしてみてはどうでしょうか」と答えておりました。

 

 昨年の暮れ、とある檀家さんのお宅へお参りに伺いました。お勤めを終え、その家のおばあさんと、その娘さんと世間話をしておりましたら、ふと目の前の鴨居に飾ってある、数年前に亡くなったおじいさんの写真が目に留まりました。つい懐かしくなり、こんな人でしたね、あんなことがありましたね、と三人でおじいさんの思い出話に花を咲かせておりましたら、娘さんからこんな話を聞きました。

「庭仕事や樹木の剪定に造詣が深かった父は、よく車に乗って、孫である私の息子を連れて、自分が手がけた庭や、手入れをしている場所を周っていました。庭の手入れの仕方や、植物のことを事細かに教えていたみたいです。その帰り道はいつも、決まって近くのコンビニで唐揚げを買って一緒に食べていたそうです。だからなのか、息子は今でも父の命日と誕生日には、必ず唐揚げを買ってきて仏壇に供えているんです」

 

 この話を聞いた途端、自身への反省と同時に、それを上回る大変な感動がありました。いつも「大切なのは先祖や亡き人を想う心を忘れないこと」と言っておきながら、私は知らず知らずのうちに心のどこかで、「亡くなったあと大切な日は命日ぐらい」だと思い込んでいることに気がつきました。

 しかし、このお孫さんは毎年誰に言われたわけでもなく、命日どころか亡き祖父の誕生日を祝うのです。誰に言われたわけでもなく、祖父が好物だった唐揚げをお供えし、あの在りし日のように一緒に食べるのです。姿形はもう見えないけれど、彼の日々に、彼の心中に、確かにおじいさんは生きているということでしょう。自分のためではなく、今は亡き祖父のために行動せずにはいられない、その利他がそのまま自利でもあります。彼もまた【自利利他】を生きる人だと思います。

 一万円を募金箱に入れるのはなかなか難しいですが、一万円札を見るたびに【自利利他】の心を興してみてはいかがでしょうか。きっと、お金に代えられないものがそこにあるはずです。

柳樂 一道

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