東京禅センター

vol.5 心に花をさかせていきましょう

だんだん暑くなってまいりました。

買い物のときのマスクが煩わしくなってきました。

今回は妙心寺派布教師 坂本宗耕師(和歌山県白浜市 大圓寺住職)の

法話をお伝えします。

 

□■ 心に花をさかせていきましょう 坂本 宗耕 ■□…

仏教には三宝と呼ばれる三つの宝がございます。三宝とは仏、法、僧となります。

仏とはブッダ。真実に目覚めた人。法とはその教え。僧とは僧侶の僧と書きますが、お坊さんだけでなく教えを求めてこられているすべての人々の集団のことを指しています。言い換えてみますと、真実に目覚めたものといいますのは、身近なところでいいますとお父さんやお母さん、または学校の先生、といった人生の先輩です。いろんなことをご指導いただいていく方々のことです。

法とはその教え。ご飯の食べ方、洋服の着方など教えていただいております。

それを学んでいる集団が僧となります。なにもお坊さんだけではないのです。和合僧と申しますけれども、和合とはあえ物といいますね。いろんな人々が集まっているということです。

今回は「法」という所を見ていきます。私たちは日々の生活の中で生いろんな、ハッと気が付くようなことがございます。その気付いていくことへ導いてくれる教えです。その中で何に一番気づきたいのかといえば、やはり私たち一人ひとりの中にあるあるがままを受け入れていける仏心と言われている花であります。

そんな心も何もしなければ種のままで芽も出なければ花も咲きません。その芽を出して蕾となり花となる水や肥料というものが「法」であります。

毎朝窓を開けた時に、何ともいい香りがしております。窓の外に目を向けてみますと季節折々の花が咲いていたのです。鼻をくすぐる香りのおかげで、季節の花が咲いているということにきづいたのです。香というものが、一つの法となって花が咲いているということに気付かせてくれているのです。

私たちは沢山の大きな気付きや小さな気付きのおかげで、成長を続けてくることが出来るのです。しかし大人になるにつれ、私たちは花の色や香りを見失ってしまっているのではないでしょうか。私自身もそうであったように思われます。


大学を卒業したはいいけれども何をしていいかわからない。そんなある日、禅のお坊さんである師匠とであったのです。私は「これこれこんな悩みがあります」と話したところ、師匠は「まずは坐禅してそれから考えろ。」ということでした。坐禅はしましたが結局なにもわからないままでした。師匠は更に「それならここにきてもっと自分の体で禅を体験してみろ。」と言われました。

私の中のお坊さんというのは、法事とお葬式ぐらいしか思いつきませんでした。いざ生活が始まりますと、朝は五時から本堂でお経を読んで、坐禅。朝ご飯を食べてから、掃除、畑に、草取り、坐禅、寝る前のお経を読んでやっと一日が終わるという生活でした。

毎日同じ時間の繰り返しの中でしたが、たまに息抜きさせてくれていたのか散歩ということがございました。一通り掃除を終えてからおにぎりを作って師匠と二人で出かけます。車で移動し到着しますと山の中です。その山の中の林道というのでしょうか、狭い道をただ歩き続けるのですが、その途中途中で、師匠は「右を見ろ何々の木がある、左を見ろ何々の花が咲いている。」ということばかり話しかけてきます。歩くのに大変なのにあっちもこっちもみなきゃいけないのです。そして今日はこれをもって帰って植えようと、花を取って帰ってお寺の境内に植えておりました。お寺の庭にはただでさえ沢山の木や花が植えられております。一年中花が咲いているような状態なのです。

そんなある日、リンドウという花を持ち帰りました。今ではお花屋さんで並んでおりますが、自然に自生しているリンドウはそのころは珍しいということでした。持ち帰って畑の隅に植えたのはいいのですが、朝晩の水やりということがかかせなくなってしまったのです。一本しかないので枯らせてしまっては大変という気持ちもありましたし、面倒臭いという気持ちもありました。

早くこの水やりから抜け出したいという思いもつかの間、修行道場に行くということになり自ずと水やりから解放されたのでした。それからあっというまに五年という月日が流れておりました。お寺に帰って五年前に出た山門をくぐりますと、私の師匠はいつもと同じように庭におりました。

「ただいまかえりました。」と言いますと、「そこを見てみろ。」そこには五つにリンドウの花が咲いておりました。私が「きれいな花ですね。」というと「おまえが植えたんじゃないか。」といわれました。

私は花を植えて、水撒きまでさせられているという思いがあり、花がきれいだと素直にみることができなかったのです。

師匠の思い、自分の中にある面倒臭いという思いで堅くなっているつぼみをほどいて仏心という花を咲かせなさいということだと気付いたのです。

まどみちおさんの「たんぽぽ」という詩です。

 

たんたん たんぽぽ
みいつけた
ちょうちょうが とまって
いたからよ

つんつん つくしんぼ
みいつけた
すみれと ならんで
いたからよ

 

たんぽぽは蝶のおかげで見つかり、つくしはすみれのおかげでみつかったのです。蝶とすみれが気付きへの法になるのです。たんぽぽとつくしをみつけることへの法となるのです。

私は師匠に水やりをやらされていたことによる面倒臭いという思いもそうなのです。自分の計らいが入るばかりでは、蕾は固く開いていかないのです。自らの計らいの入らないようになることが、あるがままをあるがままに見ることができるようになり、沢山の仏心という花を咲かせていけるのです。

皆さんも今、手を合わせてみてください。中指人差し指薬指と開いたらどうでしょう。花に見えませんか。今、皆さんの目の前に花が咲いています。この花は私たちの心の中にも咲かせることが出来るのです。私たちは自分の中に仏様の花を咲かせそして周りの人にも仏の花も咲かせていきたいものです。


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