求心歇む処即ち無事
普段、「無事」という言葉は「事無きを得る」というように、大事に至らずに済んだというような意味で使いますが、禅語の「無事」とは、人間はすべて仏性を本来具えている身であるとして、いたずらに外へ向かって仏を求めようとしないことを意味しています。(東京書籍 中村元著『佛教語大辞典』)
『臨済録』には、無事について以下の記述があります。入矢義高先生の訳注、岩波文庫『臨済録』には無事について以下の文章があります。
諸君、時のたつのは惜しい。それだのに、わき道にそれてせかせかと、それ禅それ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、いわゆる善知識(人々を導いて、悟りに至らしめる僧)を求めて憶測を加えようとする。間違ってはいけないぞ、諸君。君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。このうえ何を求めようというのだ。自らの光を外へ照らし向けてみよ。
そして、臨済禅師は「求心歇む処即ち無事」と喝破されます。探し求める心がおさまれば無事安泰だということです。この則では、『首楞巌経』の演若逹多というインドの美貌の持ち主の逸話が紹介されています。
演若逹多は、毎朝きらびやかな服を着て化粧をし、鏡に向かって自分で自分の容姿に見惚れていました。ある朝、いつも通りに沐浴をして化粧を施し髪を結って鏡を見ると、どうしたことか自らの顔が映りません。大いに驚き、昨夜誰かに顔を盗まれたと早合点しました。鏡を捨てて街に出て、私の顔はどこかと叫ぶ姿をみて、哀れに思ったひとに顔を触ってみろと云われ、我に返ることができました。演若逹多は鏡の裏側を見ていたのです。
自分を見失った愚かさの譬えですが、それはそうだと常識で判断して片付けてしまっては意味がありません。本来の自分とは一体なんであろうか突き詰めて考えるひとはあまりいないと思います。
海外やお遍路に出て「自分探しの旅」をするひとを批評してみたり、貧しいふたりの兄弟が鳥かごをもって青い鳥を探しに行き世界中を旅した挙句、青い鳥は自宅で飼っていたハトであったことを知らされる『青い鳥』の物語を読み、幸せは自分の中にあると感嘆することは容易いですが、自分とは一体なにかと言い表すことは容易ではありません。氏名や出身地、学歴や職歴、趣味嗜好など境界線を示してこれより内側が自分であると示すことはできますが、核心をつく答えはうまく表現できません。言葉では力量不足です。自分というものは、確かに我が身に宿る生命であると理解することはできますが、納得がいくひとは多くはいないと思います。やはり生命も、その核心を表すことが容易ではないからです。これが自分である、これが私に宿る生命であると体験をして身をもって知ることことが肝要です。それが知識や常識で培った自らの尺度を否定し、それ以前に具えている自らの本性を明らかにする禅仏教である所以です。
30歳になったとき、私は大病をしました。あと二週間病院に行くことが遅かったら死んでいたであろうと医師から告げられるほどでした。一生付き合わなければいけない病気になったと知り、両親が涙ぐみながら、ベッドに横たわる私を見ていました。ありがたいなぁと、しみじみと思っていました。自分も親になりこのことを思い出すと、大きな図体になった息子に寄せてくれた言葉にできない思いこそ、いつの時代も変わらない生命を育み伝え続けた真心であると思いました。
仏や仏教の真髄を外に求めても見つかりません。自身の内側にあることはわかっても体感することは難しいものです。そうしたことに惑わされず、自身即ち仏であると信じて、現前の生活に一生懸命に生きることこそ「求心歇む処即ち無事」と喝破した臨済禅師の教えであると思います。