東京禅センター

体露金風

紅葉の美しい季節になりました。

抜けるような青空に、紅葉が揺れる様は日本を代表する風景だと思います。

秋晴れの昼間、羽織物を脱いで汗ばみながら散策をしていると、思いがけぬところで工芸品のような真っ赤なカエデに出会い、思わず見とれていると冷たい風が身体全体を包み込みます。

熱くなった身体に清涼を与える秋の風は古くから貴ばれてきました。

その秋風を「金風」と表現します。

古代中国の世界観で万物を構成する五行(五つの元素である木、火、土、金、水)を用いて季節を分類すると、秋にあたる七月と八月は金(ごん)の季節にあたるので、秋風のことを金風(ごんぷう)と呼び、俳句の季語などでは金風(きんぷう)と呼びます。

 

禅の公案集(禅の祖師の行為・言動が記録されている書物)のひとつ『碧眼録』に以下の文章が掲載されています。

擧す。僧、雲門に問う、樹凋み葉落つる時、如何。雲門云く、體露金風。
 

(意訳)

修行僧が雲門文偃禅師(864-949。雲門宗の開祖)に質問しました。

樹木が枯れて枝葉も落ちた時、どういった心境でしょうか。

雲門禅師は「体露金風」と応じました。

 

まさに紅葉の時期、清々しい風が全身に吹き渡っている様を表している問答ですが、真意があります。臨済宗妙心寺派東京禅センターが所在する龍雲寺の細川景一師はご著書『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』の中で、以下のように説かれています。

 

この「樹凋み葉落つる時」が、何を意味するかによって、体露金風の意味も違ってきます。僧は眼前の風景を借りて何を言おうとしているのでしょうか。
 見方は種々ありますが、「娑羅林中に一樹有り、林に先だちて生じ、一百年に足る。……其の樹、陳朽して皮膚枝葉悉く皆な脱落し、唯だ貞実のみ在り」と『涅槃経』にいうように、それを私たちの持っている煩悩妄想と見ることがより禅的です。すなわち煩悩妄想の樹が凋み、仏教だの、禅だのという葉も落ち尽くして、迷いも悟りも忘れ去った絶対的「無」の境涯を指します。 この僧、寸糸もかかることのない絶対的な「無」の消息を引っさげて雲門に迫っています。
 雲門、「体露金風」とあっさりと答えます。見渡す限り晴れ渡った大空のもと、ここちよい秋風が颯々と渡って行くではないか、この清々しい風景を体一パイ楽しむことが悟りというものだよ。「樹凋み葉落つる時如何」などと、そうそう気張りなさるなよ。と、この僧の気負いを雲門は指摘しているのです。

 

あれやこれやと思案して毎日を送ると、目の前の現実を二元的(よい・悪い、美醜)など自らの尺度を用いて受け止めますが、それではものごとの真の姿を捉えることはできず、不満足が日々の生活を支配します。受け止め難い現実もしなやかな心で受け止めることができたならば、なるべく不満足感を抱かずに、前を向いて鮮やかに生きていくことができると禅は説きます。

 

うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

 

癌の末期症状に苦しんだ江戸時代の曹洞宗の禅僧 大愚良寛和尚(1758-1831)が、看病し最期を見届けた貞心尼に告げたと伝えられています。

私たちは良かれと思ってものごとに表裏をつけて思慮し、態度を変えて生きています。そうではなくて、しなやかな心でものごとをありのままに見て、精一杯目の前の現実に取り掛かることが、少しでも楽に生きる方法なのだと、散り際の紅葉に例えて大愚良寛和尚は歌います。

散るときまで、自分の全てをさらけ出して生き切る紅葉の姿は、まさに「体露金風」です。

 

さて、私が修行した埼玉県新座市の平林寺は紅葉が綺麗なところです。紅葉の下で今年は色がいい、今年は遅いなどとお話しされている観光客を見て、確かにそうだと思い季節の移ろいを噛み締めながら、終わりのない落ち葉掃きに汗を流していたことを思い出します。

寒い風を肌に感じ、青空に舞う落ち葉を眺めていると、これから始まる冬の厳しい修行を想像して急に寂しくなったり、またやるしかないのだと決心し直したり、紅葉を見ると情が動かされるものです。

修行から帰ると平林寺を倣って紅葉の寺にしたいと思い立ち、カエデを庭に植えました。しかし、自坊のある浅草は飲食店や自動車の排気のおかげで寒暖差がない為か、綺麗に紅葉することなく不満に思っていました。ある行事の折に紅葉真っ盛りの平林寺を訪れ、赤く染まった木々を見ていると、ふと紅葉はなぜ起こるのであろうかと疑問に思いました。自坊のカエデが紅葉しないと憤慨し澱んだ心に、鮮やかな気付きがありました。帰ってから事典などを調べると、思いがけず温かい心持ちがしましたのでご紹介いたします。紅葉のメカニズムはいまだわかっていないことも多く諸説あるとのことですが、ひとつの説を取り上げてお話し致します。

 

春に芽吹いた葉は、夏に一生懸命に光合成をして幹に栄養を送る仕事をします。しかし秋になると日差しが段々弱くなり、光合成をして得られるエネルギーが少なくなります。そうすると、緑の葉を維持するエネルギーが、光合成により得るエネルギーより多くなります。収入と支出のバランスで言えば赤字の状態に陥ります。この状態を放置すると、夏までせっかく幹に貯めたエネルギーが全て無くなってしまいます。そこで、樹木は落葉することを決断します。その時、葉は自らに残ったエネルギーを保全するために赤い色素を出し、エネルギーを全て幹に送ってから、枯れて落ちるのだそうです。その保全のための色素のおかげで鮮やかな紅葉になる訳です。綺麗だなと思ったり、もののあはれにて感傷的になったりしながら見上げる鮮やかな紅葉の中では、自分がどうなってもこの子だけは守りたいという親心のような無数の葉のドラマがあります。

 

私たちは思慮分別をして、やるべきことを踏みとどまったり、不安や後悔に苛まれたりしてしまいます。それでは苦(思い通りにならず不満足を感じること)ばかりの人生になります。

雲門禅師が「体露金風」と喝破された通り、思慮分別を捨てきれれば清々しい秋風を受け止める爽やか心もちになれることでしょう。

 

今年は色がいい、今年は遅いなどと紅葉を見上げている私たちの目の前で、うらもおもてを分けることなく、散る時までなすべきことに一心に取り組むもみじが「体露金風」の真意を説いてくれています。

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