父母未生以前の本来の面目
暖冬の中に寒波が訪れ、身体が対応できずに苦しむ日が続きます。
昨日、檀家さんが親子三代で墓参に訪れた折、五歳の男の子が「大きなカエルはいないよね?」と怖がっているのと「お寺のガマガエルは冬眠しているよ、でも間も無く土の中からでてくるだろうね」とお祖父さんが優しく教えておられました。その光景を微笑ましく見ながら、もう梅がそちこちで咲き春が近づいているのを感じました。暖冬の上に飲食店の排気で冬でも生温さを感じる浅草の地で、ガマガエルは満足に冬眠できているかと、勝手ながら心配しました。
毎朝のように凍っていた庭の池に、いつのまにかカエルが飛び込む音が聞こえてハッとして春を味わうような寒暖の差は、ずいぶん昔のことのようです。
松尾芭蕉の句集『春の日』に以下の有名な句があります。
古池や 蛙飛びこむ 水の音
一説では根本寺(現在の茨城県鹿島)住職の佛頂和尚のもとで臨済禅に参じた折の一節が元になっていると伝わっています。根本寺と鹿島神宮の間で領地争いが起こり、佛頂和尚は末寺であった臨川庵(深川。現在は臨済宗妙心寺派臨川寺)に幾度となく滞在していました。和尚の滞在中に芭蕉が訪れ、参禅を重ねていたようです。佛頂和尚が尋ねました。
如何なるかこれ、青苔未生以前の本来の面目。
(青々とした苔が生き生きとしているけれど、苔が発生する以前の本来の面目とは何か?)
すると芭蕉は、
蛙飛びこむ 水の音
と答えたと伝わっています。
この公案は、
父母未生以前の本来の面目
(お前の両親が生まれる前の、お前の本来の面目とはなんだ?)
という形で、円覚寺の釈宗演老師に夏目漱石が参禅したことでも知られています。両親が未だ生まれていない時の自分とはなにか?と問われても、常識や知識では答えに窮します。けれど立ち止まって自分という存在を考え直すと、両親にとどまらず、大きな生命の流れの中に端を発していることに気づきます。大きな生命そのものが、即今みずからの中にあることを心身で知覚することが肝要だと、この公案から知ることができます。蛙が池に飛び込む音はどの時代でも不変の音ですので、芭蕉はこの公案に 蛙飛びこむ 水の音 と応えたのもかもしれません。
さて、一月の終わりに次女の一歳の誕生日を迎えました。長女と違い、十一ヶ月で力強く歩くようになった次女を私の母が見て「一升餅を背負わせよう」と意気込みました。姉を見て習い歩くようになっただけだから、それほどに特別なことではないようにも思いましたが、折り目は丁寧にしなくてはとも思い一升餅を背負う催しを企画しました。
Amazonや楽天で一升餅を検索すると、配布しやすいように小分けになっていたり、餅に名前がプリントされていたりするものなど様々な商品がヒットしました。餅だけではなく一升のパンもあり、まさに多種多様です。家内と話し合って、小分けになっている紅白餅を選び、当日を迎えました。
餅を背負い、励まされながらもよろめいて、あっという間に倒れる娘を祖父母は手をたたいて喜んでいます。途中で家内に向かって私の母が「私の子供三人の中でこの子だけが一升餅を背負ったのよ」と私を紹介したので、こども扱いされてムッとしましたが、ふと言葉にならない春の陽気のような暖かい心持ちがして気づいたことがありました。
ひと昔前であれば、生まれてきた子供が一歳の誕生日を迎えることが当たり前ではありませんでした。その上、元気一杯に歩いて誕生日を迎えるなど奇跡に近かったのだと思います。ですからもち米を蒸して餅を搗き、みんなで精一杯のお祝いをしたのだと思います。辛く苦しいことばかりの諸行無常のなかで、噛みしめるほどに嬉しいことだったのだと想像しました。
姉を見て習い、歩くようになっただけだから、それほどに特別なことではないと思ってしまっている自分が恥ずかしくなりました。科学が進歩し、便利を享受して生きていると、いつの間にか諸行無常のなかで生きることを忘れてしまっていました。
さらに母に「私の子供三人の中でこの子だけが一升餅を背負ったのよ」と云われ、こども扱いされてムッとしましたが、連綿と続く生命を慈しむ姿をみました。諸行無常のなかで、自分も親心をもって子供を育て、生命を繋いでいくのだとしみじみと感じました。考えればわかること、当たり前と言ってしまえばそれまでですが、こうして身をもってしみじみと感じることで忘れがたいものとなるのだと思います。
そう考えてみれば、松尾芭蕉が参禅に困り果てて捻り出した
蛙飛びこむ 水の音
もとても味わい深いものです。季節や人生の節目を大切にして、諸行無常を味わって生きていきたいものです。