人生の黙々(もくもく)タイム
義雲院 小澤泰崇師
東京五輪が開幕し、一流アスリートのパーフォンマンスに酔いしれるはずだった2020年8月は、コロナ禍で状況が一変。2018年の平昌五輪の時、テレビから流れる「もぐもぐタイム」を、微笑ましく眺めていた1年半前には、予想出来なかった有事(戦争や、大規模な自然災害などの非常事態)に全世界が直面し、この有事にどう対処し、どう生きたら良いか、各々の立場で知恵を絞り、暗中模索・試行錯誤しているのが、日本の現状ではないかと思います。
かつて、幕末を生きた長州藩士に、久坂玄瑞という志士がいました。久坂玄瑞は、禁門の変(1864年)の指揮を執っている戦の最中、「有事は無事のごとく」とつぶやき、陣中で静かに読書にふけっていたとか。その度胸と落ち着きぶりを、後に西郷隆盛が「久坂先生は、お地蔵さまのような方」と評したと伝わっています。
有事は無事のごとく
一般的には、大病や災難に遭わないことを「無事」と考えますが、仏教の教えでは、違う味わい方をします。「無事」の教えを意味する言葉に「任運自在(にんぬんじざい)」という教えがあります。「任運自在」とは、「自分が置かれている状況・環境に、心を支配されることなく、流れに身をゆだね、淡々と自分の命を生きよ」との教えであると、私は味わっています。久坂玄瑞がつぶやいた「有事は無事のごとく」には、「任運自在」の境地と通じるものがあると感じています。有事の時こそ、右往左往せず、平時と変わらぬ生き方が出来ればと思いますが、凡人の私には、ハードルの高い生き方です。
この夏は、東京五輪だけでなく、高校総体・甲子園・吹奏楽コンクール等、数多くの大会が中止を余儀なくされました。夢や目標を奪われた学生や選手の皆さんの、悲しさ・悔しさ・苦しさは、どんなに想いを巡らせても計り知ることは出来ません。報道のカメラの前で「悲しさ・悔しさ」をグッと飲み込み、涙をこらえ、顔上げて、必死で前を向こうとする若い方々の姿を拝見する度に、頭の下がる思いを致しております。もし、自分が彼らと同じ状況に置かれたら・・・彼らと同じようには振舞えないであろうと、中学時代、吹奏楽に青春の全てかけていた当時の自分を振り返りながら、そんなことを感じています。
先日、ソフトボール日本代表の上野由岐子さんが、高校総体が中止になった母校のソフトボール部の後輩全員に、サイン入りの色紙を送ったとの新聞記事がありました。その色紙には、次の言葉が綴られていました。
人にはできることと できないことがある できないことをなげくより
できるひとをうらやむより できることを精一杯 できることに感謝をしながら
高校総体中止で、肩を落としている生徒のために「何か出来ないか」と悩んだ監督さんが、教え子の上野さんに頼んで送ってもらった色紙でした。「心に響きました。いつまでもくよくよしていられない、色紙は宝物です」。色紙を受け取った母校の後輩の言葉です。
来夏の東京五輪開催も不透明な中、「どちらでも(開催されてもされなくても)受け入れる準備は出来ている。試合をやりたい気持ちは当然あるけれど、自分たちでどうにもできないこともある。自分が出来ることを精一杯やる」と語る上野由岐子さんの覚悟と姿勢、そして母校の後輩に送った言葉は、コロナ禍に身を置かざるを得ない私たちも、見習うべき在り方ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
ところで、「有事」を、ある辞書で調べていると、「有事」の意味として「一大事」という言葉が出ていました。「一大事」という言葉は、「重大な出来事」という一般的な意味とは別に、禅の世界では、次のようにも説かれています。
一大事と申すは、今日(こんにち)只今の心なり。それを疎かにして翌日あることなし。
正受老人(白隠禅師の師匠の言葉)
「有事は無事のごとく」との境地には到れずとも、流れに身をゆだね淡々と生きられなくても、現実と真摯に向き合い、地に足をつけ、「今」出来ることを黙々と、精一杯務めていく努力は、未熟な私にも、なんとか出来そうが気がしています。
コロナ禍の先行きが不透明な中、不安や息苦しさは拭えませんが、今は、やりたいこと辛抱し、やるべきことを黙々と務める「人生の黙々タイム」なのだと覚悟を決め、今ある自分の命を大切に生きていきたいと思います。黙々と自分の命を生きたとしても、自分が思い描いた未来には到らないかも知れませんが、「悔いなき生き方をした」と自分自身を褒めてあげることは、出来るのではないでしょうか。
とはいえ、「黙々タイム」は、なかなかしんどいものです。自分にも他人にもエールを送りながら、互いを思いやり、互いに手を取り合い、このコロナ禍を、みんなで無事に乗り越えていきたいと思います。いつの日か「もぐもぐタイム」を微笑ましく眺めていた、あの何気ない日常が戻ることを、祈りながら・・・。