「求心歇む処、即ち無事」
最近、自分のものを失くします。作務衣や法衣から洋服に着替えて子供と遊びに行くと、駐車券やチケットなど以後大切に保管すべきものを胸ポケットにしまいますが、必要な時にしまった場所を忘れて、カバンの中を探して焦るのです。全く見つからずに、諦めようとすると胸ポケットにあることを思い出すのです。整理が行き届かないカバンの中にきっとあるはずだと思い込むことが原因だと思いますが、見つからなかったらどうしようという不安から急展開の見つけた時の安堵感はなんとも言えないものです。
演題の「求心歇む処、即ち無事」は『臨済録』といって臨済宗の祖 臨済義玄禅師の行動や言動を纏めた書物に収録された語です。
大徳、時光惜しむべし。ただ傍家波波地に、禅を学し、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め、善知識を求めて意度せんと撥す。錯まること莫れ、道流。ただ一箇の父母あり、更に何物をか求めん。自ら返照し看よ。古人云く、演若達多、頭を失却す、求心歇む処、即ち無事、と。
(意訳)諸君、時のたつのは惜しい。それなのに、君たちは脇道に逸れてせかせかと、それ禅だ、それ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、いわゆる善知識(良き指導者)を求めて憶測を加えようとする。間違ってはいけない。諸君。君たちには生まれながらにして具える仏心がある。この上、何を求めるのか。自らの光を外へ照らし向けてみよ。古人はここを「演若達多は自分の頭を失って探し廻ったが、探す心が止まったら無事安泰」と言っている。
「演若達多、頭を失却す」という語は『首楞厳経』に収録された逸話です。インドに演若達多(えんにゃだった)という大変な美男子がいて、毎日鏡ばかり見て過ごしていたそうです。ある日、無意識に鏡を裏返しにして覗いたところ、頭がなくなったと思い込みました。慌てて街に繰り出して、自らの頭の所在を聞いて回りました。町中の人はバカにしたように、頭をさわればいいじゃないかと演若達多に助言します。それを聴いた演若達多は頭を触って大きな安心を得ます。そんなバカな話、、と思われるかもしれませんが、冒頭にお話しした私の胸ポケットの話も同じです。
臨済禅師が演若達多の逸話を出して、修行僧に説いたことには、
記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、いわゆる善知識(良き指導者)を求めて憶測を加えようとする。間違ってはいけない。諸君。君たちには生まれながらにして具える仏心がある。
と、自らの仏心に気づかず外に向かって仏道を追い求める修行僧に喝破することにあります。これは仏道を探求する修行僧だけでなく、いまを生きる私たち皆にあてはまります。ビジネスパーソンの理想形、父親の理想形。かくあるべきというものを追い求めて自己啓発本がたくさん売れる世の中です。人生に意味を求めて、承認欲求を満たすことだけを考えて、それで幸せになれるのであれば良いのですが、なかなかそう上手くはいきません。それよりも肩肘を張らずに目の前の人生を味わうように毎日を過ごすほうが良いこともあります。
臨済禅師は仏心の居所を説きながら、日々の過ごし方も説いてくださっていると感じます。