至道無難
法務のあとコインパーキングに停めていた車に乗り込んだとき、ふと思い立って自販機でお茶を買おうと思いました。ドアを閉めて、また開けて。助手席の後輩に「温かいお茶か、冷たいお茶か」を聞いてドアを閉めた途端に身体中に激痛が走りました。右手でドアを閉めて、左手の小指を挟んだのです。一時間も経てば、治るだろうという予想は当たらず、痛みが増していきます。後輩と別れ、自坊に帰ると小指のことで頭の中がいっぱいになっていました。
もし骨折していたら予定も狂うし、この痛みが続いたらどうしよう。
でも小指は曲がるし、治るかもしれない。
病院に行くか迷いながらも、痛みを我慢できずに近くの整形外科に向かいました。看護師さんがカルテを見るなり、四十肩はよくなりましたか?と聞きました。何のことだかわからなくて、小指を診てもらいたくて来ましたと返答すると、去年十二月の四十肩の再診と勘違いしたと言われました。
去年の十二月の半ばに、生後十一ヶ月になった娘を抱っこしながら寺の大掃除をしていたら四十肩になった記憶が蘇ってきました。
あの時も四十肩のことで頭がいっぱいになって、年末にかけて痛みが続いたらどうしようと思い悩んで、この整形外科に駆け込んだのだと小指を先生に診ていただきながら思い出しました。思い出しながら、不安や痛みで心がいっぱいになっても、いつの間にか忘れていく心の不思議な力が自分にも具わっているなと感じました。
中国の禅宗三祖の僧粲禅師の言葉に「至道無難、唯嫌揀択」とあります。
仏教の至るべき道というものは決して難しいものではなく、どこにでもありふれたものであり、揀択(こだわりの心)を捨てることが大切だという意味だと思います。現状に不満足を唱え理想を探しますが、それでは何も解決しないということです。
私たちの心はすぐに不安になったり、辛い事をずっと思い続けたりもしますが、一方でそれらを忘れて前を向いていく力も具わっています。
新型コロナ禍が訪れて、皆が行く末を案じ不安になりました。その中で不安になることを恐れて、ポジティブに生きていく方法が尊ばれています。自分が不安に陥ってしまうことに不安になってしまうひとが多くいるのではないかと勝手ながら想像しています。
現状を見つめて、なすべき事に身を任せていくことが、僧粲禅師の「至道無難」だと思います。けれど、他と比べるあまりに理想を求めることを僧粲禅師は揀択(こだわりの心)と呼んで嫌ったのだと思います。
私たちは動き出す前にあれやこれやと考えてしまいます。
身体を動かし心をひとつにする作務や、心を曖昧にせずに向き合う坐禅で揀択(こだわりの心)から離れる修行ができます。
東京禅センターではオンライン坐禅会など禅の体験を用意しています。ぜひ、ご参加ください。