鬼は外?
昨年から「鬼滅の刃」というアニメが大ブームを巻き起こしています。うちの子供たちもご多分に漏れず映画だテレビだと盛り上がっています。このブームが社会現象にまでなったのは、私たちの生活に音もなく忍び寄るコロナウイルスへの不安を鬼に譬え、鬼たちを苦労しながらやっつけていく主人公に、希望を重ねて観ているからでしょうか。
アニメの中に登場する鬼も、もともとは人間だったそうです。人間の中に鬼になる要素が隠されているのかもしれません。ずいぶん昔、ある殺人事件の犯人に対し、僧侶の瀬戸内寂聴さんが「このような事件が起きたのは、私にも責任がある」というようなことをおっしゃっていたことを思い出します。このような事件が起きるのは一人の犯人だけが原因ではない。その犯人が犯行を犯すまでに至ったのは、その犯人を作り出した社会全体の責任でもある。そしてその社会の構成員の一人である私の責任でもあるということでしょうか。その時、私はその考えがひどく心に残って、その考え方を大切にしています。そういった目で、鬼の所業のような凶悪な犯罪をニュースや新聞で目にすると、自分も境遇や環境次第では、加害者になりうる可能性があると思えます。私の心の中に醜い鬼のような心があるのではないかと不安になります。
仏教ではこの鬼のような心を三つの毒「三毒(さんどく)」といい、誰の心の中にもあるものだと説いています。私はこの三毒を西遊記のキャラクターで説明しています。一つ目の毒は貪(むさぼ)りです。欲の深い心です。これは豚の魔物、猪八戒です。いつもお腹を空かせていて、どれだけ食べてもお腹を満たすことができず、何か食べる物はないかと探し回っている。二つ目の毒は瞋恚(しんに)。これは怒りです。自分の気に入らないことがあると腹を立てて大暴れ。ご存じ猿の魔物、孫悟空です。三つ目の毒は癡(ち)。仏教の教えに暗い愚かな者。いつもネガティブ、自らを律し明るい幸せな方向へ歩いていこうとしない。これは河童の魔物、沙悟浄です。玄奘三蔵がそれら三匹の魔物をうまく手懐けて味方にし、天竺へ大切な経典を取りに行くお話が西遊記です。私たちの心の中にある三毒という鬼を仏様の智慧の力でうまく手懐け、明るい幸せな人生を手に入れる。それが仏教の教えです。
この三毒を甘く見てはいけません。自分自身の心を返り見てみると、欲深く自分勝手で怒りっぽく、いつもこの欲望と怒りに負けて、自暴自棄になり最後に自己嫌悪に陥ることを繰り返しているのは私だけでしょうか。そして、この三毒の思うままに心を乗っ取られ、鬼のような所業を犯してしまうことだって人間にはあるのです。
西遊記では玄奘三蔵が呪術を使ったり、お説教をしたりして、三匹の魔物を改心させていくわけですが、私たちは一人四役。自分を自分が律していく他ありません。では私自身がそれが出来ているのかと聞かれますと、とてもじゃないですが、できているとは言い難いのが現状です。ただ一つこれだけは言えるというものがあれば、私はそこに向かって毎日歩いていますということだけです。それでも一日一歩三日で三歩三歩進んで二歩下がるぐらいのものですが、どこに向かって行けばいいかがはっきりしている点では、ここだという目標があります。
私は毎朝、臨済宗妙心寺派の教え「生活信条」と毎晩「信心のことば」を仏前でお唱えします。
生活信条
一日一度は静かに坐って、身(からだ)と呼吸と心を調(ととの)えましょう。
人間の尊(とうと)さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。
生かされている自分を感謝し、報恩(ほうおん)の行(ぎょう)を積みましょう。
こうして一日の始まりに心を調え(坐禅)、家族や周りの人を大切にする気持ちを持とう、今日も一日一生懸命生きようと心に誓います。そして就寝前に
信心のことば
わが身(み)をこのまま空(くう)なりと観(かん)じて、静かに坐りましょう。
衆生(しゅじょう)は本来仏(ほんらいほとけ)なりと信じて、拝(おが)んでいきましょう。
社会を心の花園と念じて、和(なご)やかに生きましょう。とお唱えします
これを毎日やっているとどうなるか。自分にとって何が大切なことなのかがよくわかってきます。そうです「和やかに生きる」ということです。その為に心を調え、周りの人を大切にし、毎日を大切に生きるのです。ですから三毒に振り回されそうになった時も、あの孫悟空の頭の輪っかのように「和やかに生きる」という言葉が私の中の三毒の手綱をしっかり握ってくれるのです。
2月は節分の豆まきがあります。「鬼は外、福は内」と言って豆をまきますが、本当の鬼は自分自身の心の中にいます。そして本当の福の神もまた心の中にいることを知って、自分の心を見つめ直し、何が大切なことかをしっかりと自覚すれば、世の中がどう変わろうと、明るい道を歩いて行くことができます。
勝楽寺住職 青井直信