没蹤跡
金龍寺 並木泰淳
先般、東京の臨済宗寺院100ヶ寺で構成している任意団体「臨済会」の活動で、岐阜県美濃加茂市伊深の正眼寺専門道場を訪れました。この僧堂は私が住職する金龍寺が所属する妙心寺派の大本山 妙心寺(京都市右京区花園)の開山である無相大師 関山慧玄禅師の由緒地です。関山慧玄禅師は大徳寺(京都市北区紫野)の大燈国師 宗峰妙超禅師の元での修行の後に、伊深の集落奥に分け入って、粗末な庵を結んで生活を始めました。
関山慧玄禅師は伊深の集落の人たちが集めた薪を飼っている牛に載せて、10キロ離れた関の町(現在の岐阜県関市)まで売りに行き、ついでに頼まれた買い物を済ませて牛を引いて帰ってきたなどと、当地に言い伝えが残ります。数年経ったのちに大燈国師 宗峰妙超禅師が病を得たことで、大燈国師を禅の師として修行に励んでいた花園上皇(のちの花園法皇)は大いに驚かれて、大燈国師に後継者を尋ねると、関山慧玄禅師ですと大燈国師は申し上げました。
そして関山慧玄禅師は生来何にもとらわれのない男であって定住することがないので、詔を出して探してくださいと大燈国師は進言します。間もなく大燈国師は遷化(禅僧の死。衆生への布教を他所に移す意)され、花園上皇は大燈国師の遺命に従って諸方に詔を出して、
関山慧玄禅師を探すことになります。偶然に伊深の里に入った使者は関山慧玄禅師を見つけ、
宣旨を伝え、関山慧玄禅師は上洛して花園上皇に謁見します。そして花園上皇は離宮を改築して開いた妙心寺の開山に関山慧玄禅師を招きます。
関山慧玄禅師が遷化されてから300年ほど経って、由緒地である伊深に円成寺が創建され、後に正眼寺と改称されました。
関山慧玄禅師は、他の高僧と呼ばれる方々と違い、伝記や語録などをほとんど残しませんでした。そのことから題の禅語「没蹤跡」の禅者と云われます。「没蹤跡」とは跡形がないという意です。『從容録』に以下の文章が出て参ります。
没蹤跡、斷消息、白雲に根無し、清風は何の色ぞ。
(意訳)蹤跡(あしあと)を没す、消息を断つ、白雲に根は無く、清風は何の色であろうか。
清風のように、あっという間に消えてしまう心地良さだけを微かに残す人柄を没蹤跡と称するようになったのです。実際に関山慧玄禅師にお会いしたことはありませんので、人柄を存じ上げるわけではありませんが、華美な物やことや定住を好まずに、これといった財産もなく、それでいて何処にいても平然と生きる姿が尊ばれたのだと思います。それは、多年に渡る臨済禅の修行によって、不満足や妬みなど囚われを忘れた清々しいお姿から生まれたものだと勝手ながら推測します。
自分のこども2人を見ていると、まるで没蹤跡のように囚われもなく、自然と成長していきます。私たち大人も変化しつづけているのですが、経験則から生まれる不安や趣味や生業などを引きずって跡を残し続けることで、過去に囚われ未来を心配して生きてしまっています。関山慧玄禅師の没蹤跡は単なる美学ではなく、不安を抱かずに前を向いて生きる修養法でした。
また関山慧玄禅師が語録や伝記を残さなかったことでも没蹤跡と尊ばれます。意図はわかりませんが、元々仏教は、人生に挫けて行き詰ったり、自分ではどうしようもない苦しみを抱いた人を受容してきました。その人たちが置かれた環境を変えることを難しいことです。ですから仏教は外境を受け止める心を変えることを問題解決の手段として説きます。修行を続け、固定観念や恐怖心など苦を生み出す原因に向き合って、その人なりに気づいて心を柔らかにすることで、前を向いて生きるようになる教えです。ですから皆が同じモラルやテクニックを身につけることが目的ではありません。それぞれの気付きへの手段や到達点はきっと違います。開祖の伝記や語録が一助になることも大いにありますが、偶像崇拝のようになってしまって根幹がずれてしまったりすることを関山慧玄禅師は危惧されたのではないかと勝手ながら推測します。
坐禅は、何かを得るものではなく、余計な計らいを捨てる修養です。是非体験してみてください。