阿 吽~つくって つぶされて~
岐阜県 興徳寺住職 稲葉瑞峯
昨年よりのコロナ禍。初めての緊急事態宣言が発出された際には、「コロナ収束までの我慢、我慢。それに、この自粛生活で家族の息もピタリと合うようになって絆が深まるかもしれないし、それも悪くないかも」と呑気(のんき)に考えていました。
しかし、繰り返す波も既に第五波。長い自粛生活の疲れか、些細(ささい)なことで家族の仲が険悪になることもしばしば…。お風呂で「ハァ~ッ」と一人ため息をつきつつ、湯船に身を沈める毎日です。
「手ぬぐい坊主をつくっては」
手ぬぐい坊主をつくっては
だまってさしだす母
手ぬぐい坊主をつぶしては
もひとつとせがむボク
つくってつぶされる つぶされてはつくる
それが母と子なのです
これは詩人サトウハチローの詩集『おかあさん』に納められた一編です。お風呂に入っている母と子。お母さんが湯船に広げて浮かべたタオルの下に両手を差し込み、タオルの中に空気を入れます。空気が逃げないようにそーっとタオルを両手で囲みながら絞ると、てるてる坊主のような形に。それをお湯に沈めるとブクブクブクッと泡が出ます。おもしろがって子供がつぶすと、ブシューッ、これが手ぬぐい坊主。「つくってつぶされる つぶされてはつくる」、その様子は、母と子の息がピタリと合った阿吽(あうん)の呼吸です。
サトウハチローは、作家の佐藤紅緑(こうろく)とその妻ハルの長男として生まれました。もともと女性関係が派手な紅緑でしたが、ハチロー十三歳の頃には舞台女優の三笠万里子と同棲を始め、ついにはハルと離婚、ハルは仙台の実家へと戻りました。そうした父への反発に、母と別れた寂しさもあったのでしょうが、中学生の頃にはハチローはもういっぱしの不良少年でした。後に「ぼくは素行が悪いというので、落第三回、転校八回、親父から勘当を言い渡されること十七回です」と自ら語るほど。それでもハルは絶えず我が子を気にかけていたことでしょう。しかし、ハチロー二十二歳の年に四十八歳の若さで亡くなりました。
素行不良で心配をかけたことへの後悔や申し訳なさが、詩集『おかあさん』誕生の源であるのは間違いありません。でも、「つくってつぶされる つぶされてはつくる」、幼いころに阿吽の呼吸で母と過ごした日々が、ハチローの寂しさを温かさで充たしてくれたからこそとも思うのです。もちろん私にも母がつくってくれた手ぬぐい坊主をつぶした記憶があります。それだけでなく、父や祖父母の手ぬぐい坊主も。またつくった手ぬぐい坊主を我が子につぶされたこともあります。いずれも阿吽の呼吸で…。つぶすのもつぶされるのも本当に楽しかったぁ。
阿吽の阿とは口を開き発する最初の字音で、全ての万物の根源や始まりを、吽とは口を閉じ発する最後の字音で、一切が帰着するところを意味します。ところが、手ぬぐい坊主を「つくってつぶされる」のが阿吽ならば、「つぶされてはつくる」のもまた阿吽、どちらが始まりでどちらが終わりということはありません。手ぬぐい坊主を通して母と子が繋(つな)がっていること、お互いを思いやることこそが阿吽なのでしょう。
思えば私にもこんな思い出が…。私が幼いころ小学校の先生だった母の帰宅時間は大抵午後六時半頃でした。日が長い夏の間はまだ友達と外を駆け回っている時間ですが、「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」で彼岸を過ぎて日が短くなるともうすっかり夜…、その暗さが寂しさを誘うのか、母の帰りを待ちわびたものです。
「ただいま」と声がして、ガラス戸を開けて母が居間に入ってくると、一目散に駆け寄る私。母は笑顔で、少し腰を落とすと両手を差し出します。私はその手をつかむと両足を母の太ももに乗せ、お腹から胸へと足で押しながら登り、クルリと回ってストンと床に着地(”足抜き回り”というこの運動、我が家では“クルリントン”と呼んでいました)します。「もう一回」とせがむ私に、何度も手を差し出す母の笑顔が、寂しさを充たしてくれました。
数十年後、「もう一回」とせがむ我が子に両手を差し出した私。手ぬぐい坊主やクルリントンを通した母との繋がりは、現在私から子へ繋がりました。いずれは孫へ、そしてその次の世代へと繋がるといいなぁ…。
そんなことを思いつつ、今宵(こよい)は久しぶりに手ぬぐい坊主をつくってみましょうか? 我が家の狭い風呂ですが、タオルを浸(つ)けられるのは内風呂ならでは。生憎(あいにく)つくるのも私ならば、つぶすのも私なのですが、それでも「この瞬間、手ぬぐい坊主をつくってはつぶされている親子があるかも」、そう思うだけで身も心も温まりそう。何しろ、どちらも阿吽の呼吸でこなしてきたのも、この私なのですから。