妙は一漚の前に在り
鶏足寺 平出 全价
「和尚さん、修行道場で一般人が坐禅体験できますか?」
「体験なら外(そと)でやりゃええ」
「やはり道場では本格的にやらないといけませんか?」
「道場は道(みち)の場所じゃ。道はどこにでもあるじゃろ」
「はぁ?」
「道を歩いておって『ああ!これが道だ!』なんて感動することあるか?」
「いいえ」
「その感動を持ってこい。そうしたら本格的に『道の場所』に入れてやる」
これは、道場の老師と信者さんとの対話です。
さて、碧巌録という禅録の中には「道は本(もと)より言無きも、言に因(よ)りて道を顕(あらわ)す・道には本来言葉はないが、言葉によって道を顕す」(入矢義高監修『禅語事典』)という表現があります。苦しみを制するための道(覚り)を得た人は、その道について言葉で説明、説示することはできないけれど、その人の暮らしの中でごく当たり前に発せられる言葉や表現が、すでにそれを詳(つまび)らかにしている、ということでしょう。冒頭の対話で「道を歩いておって『ああ!これが道だ!』なんて感動することあるか?」と老師が質問したのには、「もうすでにあなたは〈暮らし〉という本格的な坐禅を実践されていますよ。せっかく坐禅の道場で坐禅を体験するのなら、是非その気づきを道場から持ち帰って、坐禅という言葉に惑わされず、坐禅という〈気づき〉の道を歩んで欲しい」そういう願いが込められていたのに違いありません。
仏教徒として帰依するための三つの条件に〈三宝・仏法僧(ぶっぽうそう)〉があります。仏は〈悟りをひらいた教えの主〉、法は〈その教えの内容〉、そして僧は〈その教えを受けて修行する集団〉(中村元『仏教語大辞典』)のことです。実のところ、これら三宝はわれわれの暮らしで当たり前に発しているシンプルな表現によって「言に因りて道を顕」しています。
まずは〈仏〉についてです。小林一茶の句に
ぶつぶつと鳩の小言や衣配(きぬくば)り
というものがあります。衣配り(季語)とは歳末にお歳暮として親しい人に正月用の晴れ着を贈ることで、この句では、人々が出費のかさむ歳末に、鳩が「クルックル」と忙しく鳴くように小言をいっている様子がうかがえます。
「ぶつぶつ」という表現は〈たえずつぶやくさま〉や、〈不平、苦情をいうさま〉(『新潮国語事典』)を指しますが、人間社会では、この「ぶつぶつ」に対処することで人間関係や社会のルールが変化することも少なくありません。近年ではSNS上の〈ぶつぶついうさま・つぶやき〉が国を動かすことだってありました。あるいは独り言をいうときも「ぶつぶつ」という表現を使いますが、独り言も「自分の中の複数の意識の間の意思疎通」(塩谷英一郎『言語活動の清新現象学を目指して』)であるわけですから、「ぶつぶつ」のやりとりによって自分という世界が左右されているといいうこともできるでしょう。もうお気づきだと思いますが「ぶつぶつ」は〈仏仏〉。「ブツブツ(〈ぶつ〉と〈仏〉をひっくるめてカタカナ表記にしました)」は世界中に満ち溢れていて、人間の暮らしに常に作用しているというわけです。
一茶も恐らくたむろして忙しく鳴いている鳩の姿に、「ブツブツ」と文句をいながらもお歳暮を通じて人が人と関わり合おうとする、生き生きとした人間模様(これこそ仏の活きたはたらきだといえましょう)を見て取ったのでしょう。
次は〈法〉と〈僧〉についてです。「ブツブツ」をよりよく社会や個人に反映させるためには、そうやってつぶやくさまに他人や本人が「ほうほう(法法)」と耳を傾け、「ほう(法)!」と驚き、「そうそう(僧僧)!」「そう(僧)だね!」と共感することです。そして、相手への興味、驚き、共感はお互いから〈秘めた感性〉を心の底から引き出す力があります。
芸術家の岡本太郎は、感性について次のように言っています。
感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。
感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。
感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。
自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、
はじめて自分全体の中に燃え上がり、
広がるものが感性だよ。(『強く生きる言葉』)
世界中に満ち溢れた「ブツブツ」を鋭く察知して、それらをより良く反映させるためには〈感性〉が必要です。岡本太郎の言葉を借りるならば、「仏(ぶつ)」を観る感性は特別な修行で磨き上げるものではない、自分自身を世界中の「ブツブツ」に「ホウホウ!」と耳を傾け、「ホウ!」とぶっつければ、「ソウソウ!」と感性が燃え上がるのです。すなわち、感性は磨き上げたものへの特別なご褒美ではないのです。誰もが素晴らしい感性を秘めているのに気づいていないだけなのです。
冒頭の対話で老師が言いたかったことは、「あなたが今足を踏みしめているその場所が道場だ。あなたの現場に起こる事象、見える世界を〈仏法僧〉と引き受ければ、秘めた感性が燃え上がるのだ。臨済の禅はそれを仏というんだよ。それを坐禅というんだよ」ということだったのでしょう。
括りとして、禅の言葉に「妙は一漚(いちおう)の前に在り。豈(あ)に千聖(せんしょう)の眼(まなこ)を容(い)れんや・百点満点の働きは水泡の散る一瞬の上にもある。この素晴らしさは歴代の聖人の眼力でも到底およばない」というものがあります。是非、世界中の〈妙(百点満点以上に素晴らしい感性)〉を〈仏法僧〉の合い言葉とともに爆発させてみましょう。なんといっても12月は釈尊が覚り(道)を開いて仏となった成道の月なのですから。