東京禅センター

世尊拈華

世尊、昔霊山會上に在って
<意訳>お釈迦様が昔、霊鷲山(インド北東のビハール州の山に築かれた岩台、お釈迦様が説法をされた)に登られて、

 

花を拈じて衆に示す。
<意訳>花を手に取り、大衆(説法を聞こうとする大勢の弟子等)に示して見せた。

 

是の時、衆皆黙念たり。
<意訳>すると、大衆は無言で考えていた。

 

唯迦葉尊者のみ、破顔微笑す。
<意訳>ただ、迦葉尊者(十大弟子のひとり)が思わず顔をほころばせた。

 

世尊云く、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、
<意訳>お釈迦様は言われた。私は仏教の真髄たる煩悩の火が吹き消された仏心(生きとし生けるものが皆生まれながらに具える、ものごとをそのままに観る心)を具えている。

 

實相無相、微妙の法門あり、
<意訳>その真髄に至るための、迷いや妄想から離れる修行法や考えつくすことのできない深い仏の教えを身につけている。

 

不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す。
<意訳>それらは文字にすることなく、以心伝心するものである。いま迦葉尊者には確かに伝わった。

 

 中国南宋時代の禅僧 無門慧開によって編集された語録『無門関』第六則より引用しました。
 お釈迦様はいつも通り霊鷲山で説法をしようと台座に登られ、そして周りを取り囲む弟子や信者に花を一輪手に取って示されました。取り囲む弟子たちは神妙な面持ちでお釈迦様の行動について考え耽りますが、迦葉尊者だけが顔を思わずほころばせます。それを見たお釈迦様は、迦葉尊者が仏教の真髄を引き継いだことを宣言されます。これを機縁にお釈迦様入滅後もインドにて二十七代引き継がれ、二十八代菩提達磨大師(赤いダルマさんのモチーフ)が中国に禅をひろめ、やがて多くの禅僧によって我が国に禅仏教の真髄が伝えられました。その教えは、茶道や武道や多くの芸術の精神を担い、現在でも脈々と引き継がれています。
 たった一輪の花で真髄が伝わる事は、神秘主義的な儀式ではありません。
 曹洞宗開祖道元禅師は『典座教訓』の中で、

 

一茎草を拈りて宝王刹を建て、一微塵に入りて大法輪を転ぜよ
 わずか一本の草を手に取るような仕事であっても、そこに仏道実現の場を顕現させ、一微塵ほどのせまい仕事場においても偉大な仏法を説き続けよと、典座(修行道場の台所)を担う修行僧に諭しています。
 花一輪という小さな生命の中にも、大きないのちの巡りが観てとれて、そこに仏の教えの真髄が表れているのです。

 

 桜が散り暖かくなるにつれ草木の緑が鮮やかに、いろいろな花が咲き誇る時期になりました。春夏秋冬の移ろう景色は東京にいても鮮やかに感じるものです。不変性をひとつの目的とする都会の建築物に囲まれて生活をしているからかもしれません。
 先般見ていたテレビで、私がこどもであった三十年前の東京の写真や映像が流れていました。日本橋の高島屋周辺、銀座の歩行者天国の景色はあまり変わらないと決めつけていましたが、テレビで映る景色は今とは全く違うものでした。少しずつビルが入れ替わり、行き交う人の衣服が変わり、看板文字の意匠の流行が移ろう緩やかな変化の果てに、景色が一変することに気づきました。
 それに比べると自然の四季の移ろいは劇的です。移りゆく速度は無情なほど早いものです。止まっていたいと願う人々の思いを打ち砕き、自然の理を教示しています。『いろは歌』の前半は以下の通りです。

 

色は匂えど散りぬるを 
<意訳>匂い咲き誇る花も儚く散っていくように
 

我が世誰ぞ常ならむ
<意訳>誰も不変であるものはいない

 

 時の流れを喜んで受け入れるひとは稀です。大切なひとを思い、自分の死をなるべく遠ざけ、時間がなるべく遅く流れて欲しいと思う人が大半だと思います。その普遍的な人間の弱い思考に『いろは歌』は時代を超えて喝破するのです。けれど、大切なひとを思いやり、有縁無縁のひとたちと支え合って生きようとする温かい心は、無常の世だからこそあり続けるものです。だからこそ、わたしたちはかけがえのない縁や心遣いに対し「有難う」と思うことができます。この心こそ仏心の一端であって、これに気づくことも仏の教えの真髄だと思います。

 お釈迦様が花を拈じたとき、迦葉尊者だけ顔をほころばせ、以心伝心にて仏教の真髄を悟り得て、二祖として仏の教えを引き継ぎます。この仏の教え(特に禅)の中で文字に表せない心を伝えていく逸話は、峻厳な禅の教えの象徴として語り継がれています。

 

 しかし釈尊と迦葉尊者の間柄を考えると少し違った解釈もできます。
 迦葉尊者は親や兄弟、財産も全て置き捨ててお釈迦様の教団に入り修行をしました。一緒に修行を続け、自分を支えてくれている迦葉尊者のことをお釈迦様は我が子とおなじように慕い信頼していたことでしょう。そうした仲で育まれる心と心の通じ合いもまた以心伝心であり、言葉では表せない温かい心の通じ合いです。思わず我が子を抱きしめて頬ずりしたり、老いた親の手を握り続けたりするような、無常の世のなかで多くの時間を共に過ごしたからこそ育まれた温かい心の通じ合いもまたこの逸話に感じ取ることができます。

 

 長い修行を経て一握りの僧侶が悟り得る、厳しく凛とした禅の教えの他に、誰もが頷き分かる温かい教えもまたお釈迦様の教えです。
 だからこそ、二五〇〇年もの間お釈迦様の教えは引き継がれ、誰もがその教えに共感し救われるのだと思います。

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