不落因果、不昧因果
『無門関』第二則百丈野狐に収録されている一節です。百丈懐海禅師が提唱(深い禅の教えを説く説法)をされる時、ひとりの老人が修行僧の後ろに立って聴いていました。ある日、提唱が終わり修行僧たちが帰っても、老人だけが残っていたので、思わず百丈禅師は老人に何処から来たか訊ねると老人は自らの話を始めました。
私は人間ではありません。大昔にこの寺の住職をしていた時、
大修行底の人、還って因果に落つるや也た無しや
多年に渡り修行した人でも、因果律(必ずある原因によって起こり、原因なしには何ごとも起こらないという原理)にとらわれるのでしょうかと尋ねられ、
不落因果
因果律にとらわれることはない
と答えたところ、誤った答えであったようで五百回野狐として生死を繰り返しています。百丈禅師より一語をお示しいただき、野狐よりお救いください。
そこで百丈禅師は、
不昧因果
因果律を曖昧にしない。
一語を聞くと即座に老人は悟り、礼を述べて野狐より脱したと報告しました。
その後、百丈禅師は求めに応じて野狐の葬式を執り行います。
禅の教えや悟りというと、清らかで世の中より解脱して憂いもなくなるようなイメージを抱きがちです。妙心寺開山無相大師関山慧玄禅師が生死の問題で悩む修行僧に向かって喝破した
慧玄が這裏に生死無し
わしのところには、生だの死だのというものは一切ない
という一語など、字面だけで理解すると禅の奥深い境地にたどり着けば生死を超えることができるかのように錯覚する言葉が数多くあります。
晩年に骨組織が壊死する脊椎カリエスに冒された正岡子規は『病牀六尺』のなかで、
禅の悟りとは、いつでも、どこでも死ぬる覚悟ができることだと思っていたが、よく考えてみると、それは大変な誤りで、いかなる場合でも、平気で生きることであることがわかった。
と述べていますが、禅仏教の教えは超人的な力を得るようなものではなく、身勝手な計らいを挟むことなく現実を受け入れる素直さと強さを自らの中に育むものだと思います。だからこそ、百丈禅師は「不落因果」と誤った見解で野狐になった老人に対し、「不昧因果(因果律を曖昧にしない)」と現前の事象を受け入れ、鮮やかに生きる禅の教えを説いたのです。
さて、今年も東京では夏祭りの季節を迎えました。神田明神や下谷神社や浅草神社などの祭礼が既に執り行われ、勇壮に神輿が街を練り歩く様子を週末の度に観ることができます。
阿波踊りやよさこい祭りのように揃った踊りを披露する祭り、京都の祇園祭のように伝統を重んじて絢爛豪華な飾りや装束を守り継ぐ祭り、博多祇園山笠のように時間を競う祭りなど、全国に目を向けるといろいろなお祭りが存在しますが、東京の神輿を威勢良く担ぐ祭りの特色は如何なものか考えました。
それは重い神輿を、力一杯担ぎ上げるという単純なことではないでしょうか。練習も要らず、特別な衣装も要らず、長年携わらないと身につかない複雑なしきたりもありません。今や性別で分けることもありません。だからこそ町の拡大に伴い東京に流入してきた多くの人々がすぐに楽しく参加でき、氏神様ともご縁が繋ぐことができたのでしょう。初夏の陽気の中、出自も経済状況も年齢も違う人々が、掛け声とともに重い神輿をリズムよく精一杯担ぐことで、自分は周囲の多くの人のおかげで生きていけること、温かい繋がりを感じ取ることができるのだと思います。
因果や生死というと抽象的ですが、日々の生活そのもののことなのです。周りに住むひとたちと笑い合い、日々の挨拶を交わすことこそ、「不昧因果」(真心をもって周りの人々との関わりや事象を受け止めること)であり、「生死無し」(身勝手な思いを離れて、現実を受け止めること)であると、祭りばやしが響く中で感じました。
余談ですが、不昧という語は禅の教えを端的に伝える語として持て囃され、出雲松江藩の第七代藩主 松平治郷公は自らの号に用いました。大名茶人であった不昧公の没後200年を迎え、現在日本橋三井記念美術館にて、書画や茶道具などの展示会が開かれています。