水の中を尋ねても見よ浪はなし されども波は水よりぞたつ
水の中を尋ねても見よ浪はなし
されども波は水よりぞたつ
これは、大徳寺開山大燈国師宗峰妙超禅師のお言葉です。
水の中を見ると波がない。だけれども、波は水から作られるのです。
何をいっているのだと思われるかもしれませんね。これは私たちの心の中を言い表した言葉なのです。水は本来形がありません。だからどんな状況にも応じて波を作ります。でもどんな波でも水は水で本質は変わりません。それを私たちの心に当ててはめて考えるのです。
自動車の運転を思い浮かべてください。
ブレーキを踏もうとしなくても、必要な時にブレーキが踏める。目は前ばっかり見ているわけではないですよね、何も思わずとも右・左・ミラーと確認できます。
自分の目も耳もそうですよね。見ようと思わずとも見ることができて、聞こうと思わずとも聞くことができる。そのような働きを司る根本の心は同一のものです。
ブレーキを踏むことだけに心が止まってしまっていると、他の動きができません。そういうこともなく、車の運転ができることは、心がどこにも止まらずに、いろいろなところで働きをするからなのです。
これを大燈国師は水に例え、見る・聞く・ブレーキを踏むという働きを波に例えているのです。水の中に飛び込んでしまえば、波が起きていることすらわかりません。心が全体で動いているわけではないのですが、必要に応じて波を立てるように働きをするのです。
このようにもともと私たちは、生まれながらに止まらない心をもっています。その心は親にしつけられたわけでもありません。けれど、私たちは悪い癖をつけてしまいがちです。心が止まってしまう癖です。
自分が学校や社会で培った常識や知識でもって、思うようにいかない人生を勝手に予測立てて、うまくいくように願って生きています。自分の予想が外れると「なんでこうなったんだ」といつまでもそのことに心が止まってしまいます。そうすると人間は悪い癖はつきやすいもので、あらゆるところに心が止まって、悩みばかり抱えて生きていくことになります。演題は心を水と表しましたが、悪い癖がついた心は氷のようなものです。
子供に悪い癖がついたら、良い癖をつけるためにしつけをしますね。心も同じです。悪い癖を治すために、禅の修行や教えを通じて心をしつけるのです。
私も悪い癖がついた思い出があります。
大学を出て、臨済宗の修行道場にて修行をしました。その後、自坊に帰り副住職となったのですが、住職である父親と意見が合わず。ぶつかっていました。
朝のお勤めはこうした方がいい、法事はこうした方がいい、いろいろ提案したのですが、今のままやってくれと言われて全て突っぱねられました。どれもこれも納得がいかず、全部引きずっていました。今考えると、そりゃそうだという話です。ですがその頃は修行から帰ってきたというプライドのような凝り固まったものがあって、心が止まって悪い癖がついていました。その中で、庭の木について意見を言い、もちろんつっぱねられたお話をいたします。
さて私の自坊はこの近く浅草にあります。
ご存知の通り、東京大空襲にて上野の駅から隅田川まで焼け野原になりました。
私の自坊も例外ではなく、本堂も庫裏も焼け落ち、その時の住職も焼け死んでしまわれました。住職のいない荒れ寺の境内に、行き場を失った人が長屋を建てて住んだそうです。終戦から20年経ち、私の祖父が荒れ寺だった金龍寺を再建する発願を立て、苦労して本堂を建てました。土地が狭いため、その長屋から幅3メートルの私道を隔てたところに本堂を建てました。それから30年程経って孫の私が修行道場から帰ってきて、庭の管理を任されました。せっかくだから庭を綺麗に禅寺らしくしたいな。そう思い立ち見ていくと本堂と長屋の間の私道の脇に、祖父母が植えたというみすぼらしいイチョウの木が1メートル間隔で植わっています。
江戸時代の埋め立て地である浅草は土が悪く、祖父や祖母の植えたイチョウはやせ細っていました。高さ4メートル程ですが、直径は15センチ程、揺すってみると今にも抜けそうです。「これを引っこ抜いてモミジなんか植えたら秋は綺麗だな。」そう思って、さっそく住職に相談致しました。すると「あれは先代夫婦がなけなしの金で皆に喜んで欲しいと思って植えたのだ、そのままにしてやってくれ」といういつも通りの返事でした。諦めきれず、何度も頼み込みましたが、ダメというばかりでした。
やせ細った今にも倒れてしまった木を抜いて何が悪いのだ。悪いことなんて一つもない。私も今度ばかりはと思い、どんどん心は凝り固めていきました。それに伴って家族との会話も減っていきました。
しまいには住職から「お前は何を修行道場でやってきたんだ、自分の考えばかり押し通そうとして。」と怒鳴られましたが、それでも心はやはりそのままでした。
今から3年前のある日。朝いつものように私は上野の寺に勤めに、住職は埼玉まで葬儀に出かけました。10時頃、突然住職から私へ電話です。「本堂の脇の長屋が火事だ。私は葬儀があって戻れないので、お前はとにかく早く戻れ!」そう言われて、イライラ凝り固まった心もひととき忘れ、車に飛び乗り道を急ぎます。運転しながら「長屋が燃えたら、隣の本堂も燃えただろうな」そう思いながら帰ると、寺の周りの道路は通行止めで水浸しでした。
残念な事に長屋は全焼してしまいましたが、不思議と本堂も庫裏も無事でした。とにかく消防隊の方に御礼を言いにいくと、こんなことをいわれました。
「あのイチョウの木が守ってくれたのですよ。あんなみすぼらしい木でも熱風を全て遮ってくれたのです。イチョウや珊瑚樹は水気が多く火事に強い。植えられた方に感謝しなくていけないね。」
その言葉を聞いて、私はハッと気付きました。なけなしのお金で植えたイチョウや珊瑚樹はお檀家さんが、空襲で、家族を失い、家も何もかも失った。それでもこのお寺になけなしのお金を寄付して、菩提寺を復興して欲しいとおっしゃってくださった。そうしたたくさんの方からのご恩、そして空襲の中最後まで本堂に残り、焼け死んでいった先先代の住職の思いの上に建った本堂をもう二度と火災によって失いたくない」と思い、火事に強いイチョウや珊瑚樹を植えたのです。
絶対に私の言っていることが正しいと他の意見を一切受け付けない凝り固まった私の心が柔らかくなり、しなやなかに祖父母の思いを受け止めたことを実感しました。
この世の中は自分の考えが絶対正しいという生き方ではしなやかにこの世を生きてはいけません。私たちが生きているこの世界は糸が四方八方に張り巡らされているように無数の人のそれぞれの思い、自然やものがそれぞれに結ばれています。氷のような心であれば、その糸にいちいち引っかかって、無理やり前に進もうとしても、上手くいかない。糸にひっかかれば柔らかく受けとめてしなやかに前へ進む。私も時間を超えて、祖父母の思いにも気づくことができました。そんな水のように止まらない心を保つことが、社会生活を営む上で大事なことです。
水の中を尋ねても見よ浪はなし
されども波は水よりぞたつ
大燈国師宗峰妙超禅師が水に例えた、止まらない心は生まれつき私たちが持っている心であって、学校で習うものでもなく、社会で培うわけでもありません。
親に産んで頂いた時に、水のような止まらない心も受け継いだのです。その心を「ほとけの心」と呼んで、禅宗では尊びます。
ほとけの心に関しての歌をご紹介いたします。
世を救う 三世の仏の心こそ 親より伝う 心なりけり
止まらない心、言い換えればほとけの心は先祖代々親御さんが産み付けてくださったものです。そして止まらない心は無数の因縁が絡み合った人生をしなやかにみんなと仲良く暮らしていくために必要な宝物のような心です。いろいろな人の思いに気づき、大切にして前に進んで行くことが禅の教えです。しかし私たちは人生を歩む中で悪い癖をつけて、水のような心を氷にしてしまうのです。
もし氷のような心になってしまったら、是非こちらのお寺で、ご先祖様のお参りをして坐禅や掃除を体験してみてください。ご先祖様を供養する皆様の菩提寺であちらこちらに止まった心を集めて、坐禅や掃除に一心に取り組むことで、良い心のしつけをして、水のような止まらない心に戻すことができるのです。