東京禅センター

終わりを美しく

私のいるお寺はモミジのお寺として知られています。

11月も末頃になると木々が紅く染まり、多くの人が紅葉狩りに訪れます。

今年は台風24号の影響で境内のかなりの木が倒れました。しかし、モミジの木は案外風には強いようで、例年並みに見事に紅く染まりました。

 

さて、モミジの別称に「紅於(こうお)」という言葉があるのをご存知でしょうか。

これは、中国唐代の詩人・杜牧の『山行』という詩が元になっています。

この詩の後半部分を書き出してみます。

 

停車坐愛楓林暮 霜葉紅於二月花

〈訓読〉車を停めて坐(そぞろ)に愛す楓林の暮れ

霜葉は二月の花よりも紅なり

〈意訳〉車を停めてモミジの林を愛でる秋の夕暮れ時、

紅葉が春に咲く桃の花よりも紅く染まっている。

 

霜葉というのは、霜が降りる頃になって紅くなる木々の葉のことです。

その紅葉が二月の花よりも紅いといいます。

「二月の花」というと梅の花が思い浮かびそうですが、詩の中の「二月」は旧暦なので、新暦の3~4月、春の時期に当たります。また、中国で春に咲く紅い花と言えば桃の花のことを指します。桃の花は桜と似た形をしていますが、桜よりもずっと赤みが強いので紅葉と対比されているのです。

また、詩の中で「於」は紅葉と桃の花を対比させるための助字として用いられていますが、この詩が後代あまりに有名になったために、「紅於」2字でモミジのことを指すようになりました。

 

詩に出てくる唐代の車がどんなものかはわかりませんが、現代になってもやはり多くの人が車をお寺の門前の駐車場に停めて、紅葉を愛でに来ます。

紅葉の見事さは杜牧が詩を読んだ唐の時代から千年の時を経た今でも変わらず人々の心を惹きつけています。

しかし、何故これほどまで紅葉は人々の心を惹きつけるのでしょうか。

 

仏教詩人として有名な坂村真民さんは秋の紅葉を次のように詠われています。

 

落下埋没してゆくからこそ

木々はあのように

おのれを染めつくすのだ

ああ

過去はともあれ

終わりを美しく

木々に学ぼう

 

どんなものにも終わりがある。物事には永遠に不変なものなど何も無い。諸行無常という、仏教で最も重要とされる教えの一つです。

しかし、われわれ人間はその真理に気付かずに心がとどまってしまうことが多々あります。

 

私がまだ小学校低学年の頃でしょうか。外に雪が降り積もったことがあります。なんだ雪ぐらい降るだろうと思われるでしょうが、私の生まれ育った静岡県は気象の特性上、滅多に雪が降らない地域です。私が地元で過ごした約20年間のうち、積雪のあった回数というと、両手で数え収まるくらいでしょう。さらに、雪遊びができるくらいの積雪というと、私の記憶の中では1、2回あったかどうかというレベルです。

しかし、その日は夜の間に雪が降り、朝起きて窓の外を見るとうっすらと雪が積もっていました。外に出てみると辺り一面の銀世界、子供ながらこの世の中にこれほど美しい景色があるのかと思いました。そして、その時の私はその美しい雪というものを取っておきたいと考えました。そこで学校に行く前に、そのうっすらと積もった雪を一生懸命かき集め、家にあったクーラーボックスを親から借りて中に入れておきました。学校に行っている間も教室の窓から外を見ると、日の当たったところからどんどんと美しかったはずの雪が解けてなくなっていきます。その様子を私は唇を噛みしめるような口惜しい思いで眺めておりました。そうして下校の時刻になる頃には、まるで雪が降ったことが嘘のように地表面がむき出しになっておりました。あぁ、解けてしまった…。

しかし、私の中にはまだ一縷の望みが残っていました。今朝登校前にクーラーボックスに入れておいたあの雪。外の雪は解けてもあれだけは…。そうした期待を胸に家に帰り、クーラーボックスを開けてみると愕然としました。あれだけ美しかった、再び見るのを楽しみにしていたものはただの水となっていたのです。

 

誰しも美しいものはずっと消えてほしくないと願います。しかし、永遠に美しいものなどこの世には存在しないのです。

でもだからこそ、我々はモミジの散り際の見事さというものに心惹かれるように思います。

それは、過去に囚われず、2度とない“今”を精一杯に生きている自然の姿が自ずと人の心を打つからに他なりません。

そういった、とどまることのない自然の営みから学ぶべきものがあると、坂村真民さんは詩に詠われました。

 

さて、今年も1年の終わりが近づいています。

モミジほど美しくはいかないかもしれませんが、せめて身の回りの整理ぐらいはきちんと終えて、気持ちよく新たな年を迎えたいものです。

 亀 滋廣

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