天上天下唯我独尊
誕生日を迎えると、周りのひとから「おめでとう」と声を掛けてもらいお祝いをしてもらえます。小さい頃は待ち遠しく思っていましたが、「何がめでたいのであろうか」と大人になって考えるようになりました。
お釈迦さまは、紀元前四六二年頃(異説あり)、ヒマラヤ山脈の麓の小さな国、釈迦族の中心地カピラ城の城主 浄飯王の子として生を受けました。
言い伝えによると、摩耶夫人の右脇下より生まれた直後に、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地を差して、周りを見渡し「天上天下唯我独尊」と叫ばれたとされています。
お釈迦さまも我々と同じ人間ですから、生まれてすぐに歩くこともできませんし、言葉を発することもできなかったでしょう。この「天上天下唯我独尊」という産声の伝説にはどのような意味が込められているのでしょうか。
のちにお悟りを開かれ、生老病死に悩み苦しむ人々の心を救うことになるお釈迦さまの誕生を後世の人々が崇め、「天上天下唯我独尊(天上天下にわれひとりのみが尊い)」という産声の話をつくったことが第一の意味であります。
しかし私たちひとりひとりが誕生したときは、懸命に手足を動かし生命を躍動させながら、産声をあげました。この姿そのものが奇跡であり、尊いものです。
何の計らいもなく泣き叫ぶ姿は、誰もが生命の尊さを感じるものです。ですから、「天上天下唯我独尊」という句は私たちひとりひとりの生命を尊ぶ句であり、普段は気づかぬ自らの生命の尊さに目覚めるきっかけになる言葉でもあります。
もうひとつ私たちが今まで生を保つことができたのには、親をはじめ多くの人々の支えがあったことを忘れてはいけません。お釈迦さまが周りを見渡して
「天上天下唯我独尊」と叫ばれたことには、安堵と歓喜をもって自らを見つめる家族や近しい人々との縁こそ、かけがえのない尊いものであるという意味も込められていると思います。
誕生日を迎え、お祝いをすることには自らのいのちの尊さを再認識する機会であるとともに、産んでくださった母や生命をつないでくれたひとやものとのかけがえのない縁に感謝する日でもあります。